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煩悩即菩提(煩悩即菩提)

教学用語

煩悩即菩提(煩悩即菩提)

煩悩とは、衆生の生命に具わっている欲望や妄念(もうねん)のことで、成仏得道の障(さわ)りとなる一切の迷(まよ)いをいいます。

煩悩は、八万四千(はちまん しせん)の煩悩といわれる程、数多くありますが、根本的な煩悩(根本煩悩)と発生的(はっせいてき)な煩悩(随煩悩)に二分(にぶん)することができます。

根本煩悩には、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)の五鈍使(ごどんし)と、有身見(うしんけん)・辺執見(へんしゅけん)・邪見・見取見・戒禁取見(かいごんしゅけん)の五利使(ごりし)が主(おも)なものとして挙げられます。また、随煩悩には、無慚(むざん)・無愧(むき)・不信・懈怠(けだい)・放逸(ほういつ)・散乱等、多種多様の煩悩があります。

天台大師は、法華玄義(げんぎ)の中で、一切の煩悩を見思惑(けんじわく)・塵沙(じんじゃ)惑・無明(むみょう)惑の三悪(さんなく)に大別し、その根本は元品(がんぽん)の無明であると説いています。

一方、菩提とは、修行の果として得られる悟りの智慧のことで、覚・智・道などともいわれています。声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩の三乗それぞれが得ることのできる菩提は異(こと)なりますが、最高究極(きゅうきょく)の菩提とは即身成仏の大果徳をいうのです。

爾前(にぜん)諸経では、菩提を得るための修行に無量劫という長い期間を要(よう)するとされ、小乗経では見(けん)惑・思(し)惑を断じ尽(つ)くすことを説き、権(ごん)大乗経では見惑・思惑、さらには塵沙・無明の惑を断ずることを説いています。

すなわち、爾前諸経では、煩悩を断ずるところに涅槃の境地があると説くのです。

しかし、法華経に至って一念三千の法門が説き出(いだ)されたことにより、煩悩と菩提は衆生の十界互具(ごぐ)の生命に共(とも)に具(そな)わったものであり、しかも根本において本来、相即(そうそく)不二(ふに)であることが説かれたのです。すなわち、法華経の妙法の開顕によって、衆生の生命は九界即仏界、妙法蓮華経の当体であることが明かされ、煩悩はそのまま菩提と開会(かいえ)されたのです。

日蓮大聖人は『大田殿女房御返事』に

「諸大乗経の煩悩即菩提・生死(しょうじ)即涅槃の即身成仏の法門は、いみじくをぞたかきやうなれども、此はあえて即身成仏の法門にはあらず。(中略)灰身なれば即身にあらず。滅智なれば成仏の義なし」(御書 一四七一頁)

と、煩悩を断尽(だんじん)する小乗を含む諸大乗経の教えを法華経の上から破折されました。

さらには『当体義抄』に

「正直に方便を捨て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観・三諦(さんたい)即一心(いっしん)に顕はれ、其(そ)の人の所住の処は常(じょう)寂光土なり」(御書 六九四頁)

と、文底(もんてい)下種の南無妙法蓮華経の功徳により、煩悩を直(ただ)ちに菩提と転ずる仏法の究極の利益(りやく)を御指南をされています。

私たち末法の衆生は、大聖人の御当体である大御本尊に対する不惜(ふしゃく)身命(しんみょう)の強盛な信心と唱題により、御本尊と境智冥合(きょうちみょうごう)して煩悩が浄化され、凡夫身(ぼんぶしん)そのままで即身成仏の大果報を得(え)ることができるのです。

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