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神仏を礼拝することが尊いのであるから、何宗でもよいのではないか

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
宗教に限らず、人間にとって敬い、信ずるということは大切なことです。日常生活においても信頼する心がなかったならば食事もできませんし、乗り物はおろか道を歩くことも、家に住むことさえできないでしょう。

では反対になんでも無節操に信ずればよいかというと、それもいけません。道に迷ったときは道をよく知っている人に尋(たず)ねれば、間違いなく目的地に着くことができます。私たちは目的地に正しく導いてくれるものを信用したときには、所期の目的が達成されるわけですし、反対にいつわりのものや目的と違ったものを信じたときには、思い通りにならず、不満や不幸を感ずるのです。
質問のように、神仏を信ずる心が尊い、神仏を礼拝(らいはい)する姿が美しい、だから何宗でもよいというのは、詐欺師の言葉でもそれを信ずることが尊く、ブレーキのこわれた車でも信じて乗ることがよいということと同じです。

私たちの生命は周囲の環境に応じて、さまざまな状態やはたらきをします。ちょうど透明な水の入ったコップが周囲の物や光によって色が変化するようなものです。「朱に交われば赤くなる」という言葉も、周囲の縁によって感応(かんのう)する私たちの生命のはたらきを指したものでありましょう。信仰は「信ずること」であり「礼拝すること」なのですから、単に交わるとか尊敬する状態よりさらに強い影響を受け、それによってもたらされる結果や報(むく)いは、人生に大きな影響を与えることになります。
いいかえれば、信仰における礼拝は、その対象たる本尊に衆生(しゅじょう)の生命が強く感化されるのであり、人間の生命と生活の全体に、これほど強烈に働きかけ、影響を与えるものはないのです。ですからいかに信ずることが尊いといっても、人間に悪影響を与える低劣な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、その本尊や教えに感応して、次第にその人は濁(にご)った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。
たとえば「稻荷(いなり)」と称してキツネを拝んでいると、本尊のキツネの生命に、その人の畜生界(ちくしょうかい)の生命が感応して、その人の性格や行動、さらには人相まで似てきます。本来ならば過去と将来を考え、理性をもって生きるはずの人間が、畜生を拝むことによって計画性や道徳心が欠落し、人間失格の人生に変わってゆくのです。もし架空の本尊や架空の教義を信仰すれば、同じように人間も、人生も、生活も実りのない浮き草のようなものになってしまいます。
 せっかく信仰心に目覚めたのですから、理論的にも正しく、経典によってその正しさが証明され、現実に人々を幸福に導く真実の本尊と真実の教えを説き明す宗教に帰依(きえ)すべきでありましょう。

折伏実践のために

正しい信仰を教えてあげよう
よく「神仏を礼拝することが尊い」として、日本各地の神社や仏閣を訪ね歩き、そこでお守りを買ったり祈祷
をしてもらったりする人がいます。また中には「何宗でもよい。法話を聞くのが楽しみだ」という人もいます。しかし、宗教には。私たちが幸せを得ることのできる唯一つの正しい宗教と反対に信じると不幸になる間違った宗教があります。こうした人たちには、宗教には正しい宗教と間違った宗教があることを教えてあげましょう。
 言うまでもなく、どの宗教にも必ず拝む対象(本尊)があり、教え(教義)がありますが、あらゆる宗教が仏の教説に従っていません。中にはキタネや蛇などの畜類を、神の使いや御神体として祀るインチキな宗教もあります。
こうした邪宗教を信じ、低劣な本尊に手を合わせたり、拝んだりすると、知らず知らずに自分の命の中に謗法の害毒となって浸透し、これが災いして様々な苦を招きます。今の世の中がそれを反映しています。
 それでは正しい教えとは何でしょうか。仏の教説に従えば、現在は末法の時代にあって、この時に私たちが信仰
すべき教えは法華経であり、その根本が日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経の教えです。これこそ、仏の説かれた道理に基づく真実・最勝の教えなのです。
 したがって、私たちは、幸いにしてこの正法に巡り合い、大聖人様が顕された三大秘法の御本尊の功徳に浴して安穏な生活を送ることができます。
 だからこそ私たちが折伏をして、一人でも多くの人々に正しい因果の道理が説かれる妙法の教えを聞かせ、御本尊のもとに導くことが大切なのです。
 人の心は縁によって変わる
  信ずるということは、たいへんに尊いことですが、何を信ずるかによって大きく変わります。たとえば他人を信頼したり尊敬したりすることによって、相手の思想や考え方が自分自身に大きく影響してきます。また親交を深めるほど、尊敬すればするほど相手の癖や性格、考え方までが似てきます。私たちは一人では生きていけませんから、大なり小なりこうした縁に触れて生活をしています。‘
 宗教も同様に、礼拝すれば、その宗教の本尊に私たちの心が感応(相通じ)して影響されます。正しい宗教や物の考え方に縁をすれば、人の心も正しくなりまず。反対に、間違ったものに縁をすれば、人の心は間違った考え方になります。例えば、念仏を信仰すると極楽浄を求めるあまり、現実に直面している問題から逃げる癖がつき、その結果、自ら命を絶つ人もいます。このように、人の心は、縁によって必ず影響を受けますから、「何でもよい」とする考え方はたいへんに危険です。
 間違った思想や考え方、間違った宗教は、人の心に入り身も心も汚してしまいます。私たちの心身が汚れると、正しい判断ができなくなり、生活に不幸を招きます。これは、私たちの命が、周囲の縁によって感応し、様な用きをするからです。
幸せになるには正しい御本尊様に縁を
 諺に「縁なき衆生は度し難し」と言われます。縁がなければ、正しい仏法を知ることができません。
 大聖人様は、『西山殿御返事』に、
  「うつりやすきは人の心なり、善悪にそめられ候」(御書 一〇七二ページ)
と仰せです。即ち、私たちの心というものは、職場や友達、また様々な縁によって移り変わり、善にも悪にも、どちらにも染まってしまうのであります。よい人との出会いは、まことに大切です。善縁によって、自分でも判らない心の潜在的な部分の意識を呼び起こし、自分でも驚くほどの力が発揮されるからです。これは、誰にも当てはまります。
 故に人生において幸せを開く秘訣は、善縁に巡り合うことです。正しい御本尊様に巡り合うことで人生が大きく変わり、必ず救われて幸せになれるのです。大聖人様が示された御本尊様は、経典によってその正しさが証明されており、一切の人々を幸せに導ぐ、真実の功徳ある御本尊様です。

勇気をもって折伏し一人でも多く救おう
 大聖人様は「報恩抄」に、
  「日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(同 一〇三六ページ)
 と仰せられ、大聖人様の願いは、すべての人の悩み苦しみ除き、幸せと楽しみを与えることにあると示されております。
 御法主日如上人猊下は、
 「一切衆生救済の大事業とは何かと言えば、すなわちそれは折伏であります。謗法の害毒によって、不幸と混乱と苦悩に喘ぐ多くの人々を救い、自らもまたその功徳によって、三世にわたる絶対の幸せを築き、悠々たる人生を送っていくためにも、折伏は我々の信心からはずすことのできない大事な仏道修行であります』(大白法 七一三号)
 と御指南されました。
 今、私たちがなすべき最も大事なことは折伏です。そして、すぐにでもできることは、友人や知人に、大聖人様の正しい仏法を語り聞かせて、御本尊様のもとへ導くことです。真の正法を知らず、迷える人たちを一刻も早く、そして一人でも多く救うためにも、折伏に邁進しましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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