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弥三郎殿御返事

   御書5
               建治三年八月四日  五六歳
 是は無智の俗にて候へども、承り給ひしに、貴く思ひ進らせ候ひしは、法華の第二の巻に「今此三界」とかや申す文にて候なり。此の文の意は今此の日本国は釈迦仏の御領なり。天照太神・八幡大菩薩・神武天皇等の一切の神、国主並びに万民までも釈迦仏の御所領の内なる上、此の仏は我等衆生に三の故御坐す大恩の仏なり。一には国主なり、二には師匠なり、三には親父なり。此の三徳を備へ給ふ事は十方の仏の中に唯釈迦仏計りなり。されば今の日本国の一切衆生は設ひ釈迦仏にねんごろに仕ふる事、当時の阿弥陀仏の如くすとも、又他仏を並べて同じ様にもてなし進らせば大なる失なり。譬へば我が主の而も智者にて御坐さんを他国の王に思ひ替へて、日本国にすみながら漢土・高麗の王を重んじて、日本国の王におろそかならんをば、此の国の大王いみじと申す者ならんや。況んや日本国の諸僧は一人もなく、釈迦如来の御弟子として頭をそり衣を著たり。阿弥陀仏の弟子にはあらぬぞかし。然るに釈迦堂・法華堂・画像・木像・法華経一部も持ち候はぬ僧共が、三徳全く備はり給へる釈迦仏をば閣きて、一徳もなき阿弥陀仏を国こぞりて郷・村・家ごとに人の数よりも多く立てならべ、阿弥陀仏の名号を一向に申して、一日に六万八万なんどす。打ち見て候所はあら貴しや貴しやと見へ候へども、

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昭一郎

見目昭一郎

法華経を以て見進らせ候へば、中々日々に十悪を造る悪人よりも過重きは善人なり。悪人は何れの仏にもよりまいらせ候はねば思ひ替はる辺もなし。若し又善人とも成らば法華経に付き進らする事もや有りなん。日本国の人々は何にも阿弥陀仏より釈迦仏、念仏よりも法華経を重くしたしく心よせに思ひ進らせぬる事難かるべし。されば此の人々は善人に似て悪人なり。悪人の中には一閻浮提第一の大謗法の者、大闡提の人なり。釈迦仏此の人をば法華経の二の巻に「其の人命終して阿鼻獄に入らん」と定めさせ給へり。されば今の日本国の諸僧等は提婆逹多・瞿伽梨尊者にも過ぎたる大悪人なり。又在家の人々は此等を貴み供養し給ふ故に、此の国眼前に無間地獄と変じて、諸人現身に大飢渇・大疫病、先代になき大苦を受くる上、他国より責めらるべし。此は偏に梵天・帝釈・日・月等の御はからひなり。  かゝる事をば日本国には但日蓮一人計り知って、始めは云ふべきか云ふまじきかとうらおもひけれども、さりとては何にすべき。一切衆生の父母たる上、仏の仰せを背くべきか、我が身こそ何様にもならめと思ひて云ひ出だせしかば、二十余年所をおはれ、弟子等を殺され、我が身も疵を蒙り、二度まで流され、結句は頚切られんとす。是偏に日本国の一切衆生の大苦にあはんを兼ねて知りて歎き候なり。されば心あらん人々は我等が為にと思し食すべし。若し恩を知り心有らん人々は、二つ当たらん杖には一つは替はるべき事ぞかし。さこそ無からめ、還りて怨をなしなんどせらるゝ事は心得ず候。又在家の人々の能くも聞きほどかずして、或は所を追ひ、或は弟子等を怨まるゝ心えぬさよ。設ひ知らずとも誤りて現の親を敵ぞと思ひたがへて罵り、或は打ち殺したらんは、何に科を免るべき。此の人々は我があらぎをば知らずして日蓮があらぎの様に思へり、譬へば物ねたみする女の眼を瞋らかしてとわりをにらむれば、己が気色のうとましきをば知らずして、還りてとはりの眼おそろしと云ふが如し。此等の事は偏に国主の御尋ねなき故なり。又何なれば御尋ねなきぞと申すに、此の国の人々余り科多くして、

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昭一郎

見目昭一郎

一定今生には他国に責められ、後生には無間地獄に墮つべき悪業の定まりたるが故なりと、経文歴々と候ひしかば信じ進らせて候。此の事は各々設ひ我等が如くなる云ふにかひなき者共を責めおどし、或は所を追はせ給ひ候とも、よも終には只は候はじ。此の御房の御心をば設ひ天照太神・正八幡もよも随へさせ給ひ候はじ、まして凡夫をや。されば度々の大事にもおくする心なく、弥強盛に御坐すと承り候と、加様のすぢに申し給ふべし。  さて其の法師物申さば、取り返してさて申しつる事は僻事かと返して、釈迦仏は親なり、師なり、主なりと申す文、法華経には候かと問うて、有りと申さば、さて阿弥陀仏は御房の親・主・師と申す経文は候かと責めて、無しと云はんずるか、又有りと云はんずるか。若しさる経文ありと申さば、御房の父は二人かと責め給へ、又無しといはゞ、さては御房は親をば捨てゝ、何に他人をもてなすぞと責め給へ。其の上法華経は他経には似させ給はねばこそとて、四十余年等の文を引かるべし。即往安楽の文にかゝらば、さて此には先づつまり給へる事は承伏かと責めて、それもとて又申すべし。  構へて構へて所領を惜しみ、妻子を顧み、又人を憑みてあやぶむ事無かれ。但偏に思ひ切るべし。今年の世間を鏡とせよ。若干の人の死ぬるに、今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり。此こそ宇治川を渡せし所よ。是こそ勢多を渡せし所よ。名を揚るか名をくだすかなり。人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり。釈迦・多宝・十方の仏来集して我が身に入りかはり、我を助け給へと観念せさせ給ふべし。地頭のもとに召さるゝ事あらば、先づは此の趣を能く能く申さるべく候。恐々謹言。  八月四日                   日 蓮 花押

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