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一生成仏抄(いっしょうじょうぶつ)

教学用語

一生成仏抄(御書 45頁)

(別名『与富木書』)

一、御述作の由来

本抄は、大聖人様が立教開宗された二年後の建長七(一二五五)年、三十四歳の御時、鎌倉・松葉(まつば)ケ谷(やつ)の草庵にて認(したた)められ、下総(千葉県北西部)の富木常忍殿に与えられた御手紙と伝えられています。

建長五(一二五三)年四月二十八日、安房・清澄山嵩(かさ)が森(もり)にて立教開宗を宣せられた大聖人様は、故郷を後に、末法万年の一切衆生を救済すべく、当時の政治の中心地鎌倉へと向かわれました。そして、まもなく法華弘教の拠点として鎌倉・松葉ケ谷に草庵を結ばれると、その後弘教に努められる中で、後に入道して常忍と称した富木五郎胤継(たねつぐ)殿が入信したのです。

富木殿は、信行学の錬磨に努め、後に入信した曽谷教信殿、太田乗明殿、四条金吾殿らの中にあって中心的な役割を果たしました。特に『観心本尊抄』『法華取要抄』『四信五品抄』など四十余篇にわたる御書を賜っていることは、下総・若宮の領主として地域社会に堅固な基盤を有する富木殿に対し、後世への御書の格護保存を託されたものといえるでしょう。

二、本抄の大意

一心に御題目を唱え、一生の中で成仏の境界を得るよう勧誡された御書で、はじめに、我ら凡夫の成仏は衆生本有(ほんぬ)の妙理(衆生が本来具備している妙法)を観ずるところにある。この衆生本有の妙理こそ妙法蓮華経であり、妙法蓮華経と唱えることが衆生本有の妙理を観ずることである。なぜなら、法界のすべてが一念の生命に包含されることを説き顕しているのが妙法だからである、と御教示されます。

次に、いかに妙法を持つとも、自己の心の外に妙法蓮華経があると捉えるのは間違いであると示されます。つまり、幾度となく生死を累(かさ)ね、長い期間の厳しい修行を経て、はじめて悟りを得ると説く歴劫(りゃっこう)修行や、念仏を唱えることによって、死後、娑婆世界を捨てて他に極楽浄土の別世界を求めるなど、仏と凡夫、浄土と穢土(えど)とを隔てるような爾前権教の考え方を誡められています。そして、迷いも悟りも、本来その体は一つであり、衆生の一念を浄化することにより、現に住する娑婆世界において、凡夫がその身を改めずに即身成仏することを教えられたのです。

次いで、妙法蓮華経こそ、その成仏の直道と御教示あそばされ、さらに法華経を引かれ、滅後末法、娑婆世界における妙法受持の唱題に励むならば、必ず一生成仏することを明かされて締め括られます。

三、拝読のポイント

「衆生本有の妙理」・「己心」の真意

私たちが御書を拝するとき、『三沢抄』の、

「又法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(御書 1204頁)

との仰せに則り、御化導の時期により、御法門の内容に浅深の次第があることを心得るべきです。

佐渡以降、明確に本迹相対、種脱相対と従浅至深して御本意の法門を示され、特に出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を顕発された、御本仏の境界を基準に御書を拝するとき、はじめてその真意に至ることができるのです。

本抄では、冒頭、私たちの一生成仏のためには「衆生本有の妙理」、すなわち私たち凡夫の己心に本来具(そな)わる妙法を観ずべきで、それは妙法を唱えることと規定されています。さらにまた、いかに妙法を唱え持ったとしても、妙法が私たちの「己心」の外にあると思えば、それは全く妙法ではないとも御教示されています。

ただし、本抄は大聖人様が御本尊を顕発される遙(はる)か以前、宗旨建立のわずか二年後という、極めて早期の御書であり、未だ大聖人様の本懐たる妙法の本義を顕されてはいません。つまり、妙法弘通のはじめに当たり、権実相対の上から迹門・諸法実相の理に約した妙法の意義を、私たちの「己心」に具わる「衆生本有の妙理」として示された、一往の御教示なのです。したがって、その理の法門のままでは、私たちに妙法の活現はありません。

しかし、再往「己心」の真意を、大聖人様の仏法の本義から拝すると、『経王殿御返事』に、

「日蓮がたまし(魂)ひをすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(同 685頁)

と仰せのように、それは直ちに御本仏日蓮大聖人様の「己心」であり、「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められた、人法一箇の本門戒壇の大御本尊にこそ存するのです。

されば、私たちが、御本仏の「己心」の当体たる本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱えることにより、はじめて私たちの「己心」に具わる「衆生本有の妙理」も活現し、自らの生命を潤していくことを知るべきです。

これに反して、かの池田大作は、法門の次第浅深をわきまえず、本抄等の文だけを取って、「仏とは、人間(凡夫)である」「人間(凡夫)こそ、仏である」と放言し、衆生の迷心に妙法の当体があるごとく主張して憚(はばか)りません。このような憍慢(きょうまん)の邪義が、大聖人直結という誤った指導となり、『ニセ本尊』という大謗法の所業となって、多くの人を惑わしているのです。

私たちは、真の妙法蓮華経とは、寿量文底下種の御本仏日蓮大聖人の己心の当体たる、本門戒壇の大御本尊に存するとの正義に基き、創価学会をはじめとする推尊入卑(さいそんにゅうひ)の邪義謗法を、徹底して破折していこうではありませんか。

成仏の直道を確信しよう

先の「己心」の真意に基づきながら、私たちの成仏の直道を再確認してみましょう。

大聖人様は、本抄で、一生成仏の要諦につき、私たち凡夫の生命の奥底に妙法蓮華経の生命を具えていることを示され、一心に信心修行に励むことによつて、煩悩即菩提・生死即涅槃の悟りの境界を得ると教えられています。

『譬喩品第三』に、

「仏常に教化して言(のたま)わく、

我が法は、能(よ)く生老病死を離れて、涅槃を究竟(くきょう)す」

(法華経 一四二頁)

とあります。生とは、仮に和合した色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の五陰(ごおん)が身を成すことをいい、この身の和合が解けるのを死といいます。過去の因縁により現世に出現し、出現しては死に、生死を繰り返すから、生死輪廻(りんね)とも六道輪廻ともいうのです。この生死の迷いを明らかにし、苦しみから出離することを、涅槃とも、菩提とも、悟りともいい、煩悩・罪障の苦に常に沈む境界を、生死とも、迷いともいうのです。

もし、この迷いからの出離を願うならば、ありのままの私たちの姿を観ずることが肝要です。ありのままの私たちの姿こそ妙法蓮華経の当体なのです。したがって、十界三千の依正・色心・有情非情、一塵も残さず妙法の当体にして、私たちの一念におさまるのです。これを一心法界といい、一念の心が法界に遍満する相を万法というのです。

ただし『四信五品抄』に、

「問ふ、何が故ぞ題目に万法を含むるや。答ふ(中略)妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ。初心の行者は其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当たるなり」

(御書 1114頁)

と仰せのように、妙法蓮華経の五字は経文でも義でもありません。先に述べた通り、御本仏の悟りの意であり、それは人法一箇の御本尊なのです。

私たちは、妙法の心を知らなくとも、この本門の御本尊を信じ行ずることにより、自ずと御本仏の悟りの境界に適(かな)うのです。

したがって、本門の御本尊を信ずる心を離れて、別に妙法が存するなどと捉えては、生死の迷いから離れることはできません。故に『法華初心成仏抄』に、

「我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり」(同 1320頁)

と御教示されているのです。

私たち日蓮正宗僧俗、法華講員は、御本仏日蓮大聖人様の御当体たる本門戒壇の大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉る唱題の一行こそが、一生成仏の直道であると、深い確信を持つことが大切です。御題目を唱えることこそ、最高の楽しみ、最高の悦びであり、充実した妙法の功徳が、自然と我が生命に涌き上がって、一切の道が開かれていくのです。

四、結 び

本抄で御教示あそばされる妙法唱題の大事について、大聖人様は後の『御義口伝』において、

「日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは捨是身已(しゃぜしんい)なり。不惜身命の故なり」(同 1744頁)

と仰せです。これについて御法主日顕上人猊下は、平成十二年夏期講習会第五期の砌、

「この身を捨てるということを日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経と唱えることだと仰せです(中略)本門下種仏法では、妙法を唱え折伏弘通することがそのまま即身成仏であり、その理由は、迷いの凡身そのものをもって、直ちに肉身のまま仏と成るからです」(大白法 五六一号)

と御指南あそばされています。

私たちは、日々の唱題と折伏弘教こそが即身成仏の直道であることを深く確信し、いよいよ明年に迫った宗旨建立七百五十年の大佳節をめざし、誓願貫徹に向かって「日々の唱題行」と「一人が一人以上の折伏」に命がけで励んでまいりましょう。

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