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得受職人功徳法門抄

御書3

得受職人功徳法門抄  文永九年四月十五日  五一歳

 受職とは因位の極際に始めて仏位を成ずるの義なり。此の受職に於て諸経と今経との異なり有り。

 余経の意は、等覚の菩薩、妙覚の果位に叶ふの時、他方の仏来たりて妙覚の智水を以て等覚の頂に灌ぐを受職の位の灌頂と云ふなり。又諸経には第十の法雲地に等覚を合摂し、又等覚に妙覚を合説するなり。詮ずる所受職の位を等覚の菩薩に限って、等覚已前の諸位に之を置かざる事は、是権教方便なるが故なり云云。

 次に法華実教の受職とは、今経の意は聖者よりも凡夫に受職し、善人よりも悪人に受職し、上位よりも下位に受職し、乃至持戒よりも毀戒、正見よりも邪見、利根よりも鈍根、高貴よりも下賤、男よりも女、人天よりも畜生等に受職し給ふ経なり。故に未断見思の衆生の我等も皆悉く受職す。故に五即・五十一位共に受職灌頂の義あり。釈に云はく「教弥権なれば位弥高く教弥実なれば位弥下し」と云ふは此の意なり。

 問ふ、諸経論の意は等覚已前の四十位に尚受職の義無し。今何ぞ住前未証の位に於て、受職の義を明かすや。答ふ、天台六即を立て円人の次位を判ず。尚是円教の教門にして証道の実義に非ず。何に況んや五十二位は別教の権門に附するの廃立なるをや。若し法華の実意に約して探って之を言はゞ与奪の二義有り。謂はく、与の義とは、一位に皆五十一位を具し、互具相即して且くも欠減無し。設し此の辺に約せば五即・五十一位に受職灌頂の義有るべし。又奪の辺とは、六即・五十二位は権実二教の教門に附す。故に未断煩悩の凡夫も妙法を信受するの時、妙覚の職位を成ず。豈此の人に於て受職の義無からんや。経に云はく「我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」と。又云はく「須臾も之を聞かば即ち阿耨菩提を究竟することを得ん」文。文に「仏道究竟」とは是妙覚の果位なり。但し天台等の釈に分証の究竟と釈し給ふは、一位に諸位を具するの時、一位に皆分証・究竟の二益有り。此の辺に約して解釈せば分証・究竟に亘ると判じ給へり云云。

 今経の受職灌頂の人に於て二人あり。一には道、二には俗なり。道に於て復二あり。一には正しき修学解了の受職、二には只信行の受職なり。俗に於ても又二あり。道に例して知んぬべし。比丘の信行は俗の修学に勝る。又比丘の信行は俗の終信に同じ。俗の修学解行は信行の比丘の始信に同ず。何を以ての故に、比丘能く悪を忍べばなり。又比丘は出家の時分に受職を得。俗は能く悪を忍ぶの義有りと雖も受職の義なし。故に修学解了の受職の比丘は仏位に同じ。是即ち如来の使ひなればなり。経に云はく「当に知るべし、是の人は如来と共に宿せん」と。又云はく「衆生を愍むが故に此の人間に生まれたり」と。是の故に作法の受職灌頂の比丘をば、信行の比丘と俗衆と共に礼拝を致し供養し恭敬せん事、仏を敬ふが如くすべし。「若し法師に親近せば速やかに菩薩の道を得ん。是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」が故なり。自門尚是くの如し。何に況んや他門をや。

 問ふ、修学解了の比丘の受職と信行の比丘乃至俗衆の受職との相貌如何。答ふ、信行の比丘の受職と俗衆の受職と是同じ。何を以ての故に、此の信行の比丘と在家の衆とは但だ信行受持の功徳なればなり。経に云はく「仏薬王に告げたまはく、又如来滅度の後若し人有って妙法華経の乃至一偈一句を聞きて一念も随喜せん者には我亦阿耨菩提の記を与へ授く」と。又云はく「是の人歓喜して法を説かんに、須臾も之を聞かば即ち阿耨菩提を究竟することを得ん」と。又云はく「此の経は持ち難し。若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す。諸仏も亦然なり。是くの如きの人は淳善の地に住するなり」と。提婆品に云はく「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん」等云云。是くの如き等の諸文一に非ず。具には之を記すること能はず。無智の道俗は自らの成仏計りの功徳にして利他の功徳なし。例せば第五十の人の師の徳無きが如し。無智の道俗も亦復是くの如し。少分利他の徳有りと雖も法師品の下品の師に劣れり、況んや上品の師をや。法師品の下品の師とは分の解了之有りて法会の聞きを違へず、能く竊かに一人の為にも説くなり。其の理法華経と如来の本懐とに違はざるが故に、所化も信受すれば利を得るが故に、無智の道俗は少分の教化有りと雖も語に言失有り、法に又違う所有り。故に知んぬ、今の無智の道俗等は但仰いで信じ仰いで行じ仰いで受持せよ。又弘経の師に於て之を供養すべし。経に云はく「若し仏道に住して自然智を成就せんと欲せば常に当に勤めて法華を受持せん者を供養すべし。其れ疾く一切種智慧を得んと欲すること有らば、当に是の経を受持し並びに持者を供養すべし」と。

 問ふ、今の文に持者とは無智の道俗等なり、如何。答ふ、経の始終、上下の師に約して持者と名づくる故なり。仍って文の前後を見るべきのみ。

 問ふ、何の故ぞ、修学解行の受職の比丘の功徳は無智の道俗の功徳に勝るゝや。答ふ、解行の受職の比丘は無智の道俗の功徳を具するのみならず、己が修学解行と作法受得の受職と、又利他の功徳と此等の功徳を取り集めて、一身に具する故に勝ると云ふなり。

 難じて云はく、若し爾らば経文の「以信得入」と云ふ文に背けり、如何。答ふ、二乗は利他の行無し。故に「以信得入」と云ふなり。

 重ねて難じて云はく、他経の文に「八万聖教を知ると雖も後世を知らざるは無智」等といふは如何。答ふ、今の師は自ら後世を知る上又他を利す、故に勝ると云ふなり。例せば第五十人の功徳を挙げて初会聴法の人の功徳を況するに、上の四十九人は皆自行化他の徳を具し、第五十人は自行に限って化他の徳無きが如し云云。

 次に正しく修学解行の受職の比丘の功徳を言はゞ、是に於て上下の二師有り。謂はく、上の師は広く人の為に説き、下の師は能く竊かに一人の為に説くなり。上下の不同有りと雖も同じく是五種法師なり。経に云はく「若し善男子・善女人、法華経の乃至一句に於ても受持し、読誦し、解説し、書写す。乃至、当に知るべし、此の人は是大菩薩なり。阿耨菩提を成就して衆生を哀愍して、願って此の間に生まれ、広く妙法華経を演べ分別するなり。何に況んや、尽くして能く受持し、種々に供養せん者をや。薬王、当に知るべし、是の人は自ら清浄の業報を捨てゝ、我が滅度の後に於て衆生を愍れむが故に悪世に生まれて広く此の経を演ぶるなり。若し是の善男子・善女人、我が滅度の後に能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使ひなり、如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや、大衆の中に於て広く人の為に説かんをや」と。今の品の下品の師とは、「広為人説」の一師に於て上下の師を分かつなり。釈は且く之を置きぬ。文に入って之を見るに、上に五種法師を挙げ畢って「衆生を愍れむが故に悪世に生まれて広く此の経を演ぶ」と云ひ、「若是」とおさふる一句の文の内に「能竊為一人説(のうせつちいちにんせつ)」とも「広為人説」とも云へり。文の意は「広演此経」の人、時宜して竊かに一人の為に法華経を説く、尚如来の使ひなり。何に況んや「大衆の中に於て広く人の為に説かんをや」と云ふ文なり。今の文には五種法師を挙ぐ。余処並びに他の経論には、六種十種の法師を明かすなり。謂はく、大論の六種の法師、天王般若の十種の法師、乃至如来行の一師、自行化他の二師、身口意の三師、又身口意誓等の四師あり。此等の師々は皆今の品の五種法師の具する所の功徳なり。

 然るに予下賤なりと雖も、忝くも大乗を学し諸経の王に事ふる者なり。釈迦既に妙法の智水を以て、日蓮の頂に灌ぎて面授口決せしめ給へり。日蓮又日浄に受職せしむ。受職の後は他の為に之を説き給へ。経文の如くんば如来の使ひなり。如来の所遣として如来の事を行ずる人なり。経に利他の人の功徳を説きて云はく「是の人は一切世間の応に瞻奉すべき所なり。応に如来の供養を以て之を供養すべし。当に知るべし、此の人は是大菩薩にして阿耨菩提を成就す」。又云はく「当に知るべし、是の人は自ら清浄の業報を捨つ」と。又云はく「当に知るべし、是の人は仏の荘厳を以て自ら荘厳するなり。則ち如来の肩に荷担せらるゝことを為ん。其の所至の方には、応に随って向かひ礼すべし」等云云。一部の文広くして具に記すること能はず。受職の法師の功徳是くの如し。是の故に若し此の師を供養せん人は福を安明に積み、此の師を謗ぜん人は罪を無間に開く。伝教大師云はく「讃めん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開く」とは此の意なり。此の師を供養し恭敬し讃歎せん人の功徳を仏説きて言はく「人有って仏道を求めて、一劫の中に於て合掌して我が前に在って、無数の偈を以て讃めん。是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」と。

 問ふ、何を以ての故に、弘経の師を供養する功徳は是くの如く一劫の中に於て無数の偈を以て仏を讃むる功徳より勝れたるぞや。答ふ、仏は衆生を引導すること自在神通力の故に此の経を説くこと難からず。凡師は自在の三昧を得ざるが故に此の経を説くこと則ち難し。故に一劫讃仏の功徳に勝ると云ふなり。されば此の弘経の人は「如来と共に宿する」の人なり。経に云はく「上の如し」と。又云はく「如来の滅後に、四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、云何が応に説くべき。是の善男子・善女人は如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し応に四衆の為に広く斯の経を説くべし」等云云。是くの如きの人なれば、如来変化の人を遣はして供養すべしと見えたり。経に云はく「不懈怠の心を以て諸の菩薩及び四部の衆の為に、広く是の法華経を説くべし○時々に説法者をして、我が身を見ることを得せしめん」と。本師教主釈迦如来、是くの如く之を守護し供養し給ふ。何に況んや、我等凡夫をや。故に若し之を供養し礼拝する人は最上の功徳を得るなり。故に今時の弘経の僧をば、当に世尊を供養するが如くにすべし。是則ち今経のをきてなり。若し此の師を悪口し罵詈し誹謗すれば、種々の重罪を受くることを得るなり。経に云はく「若し一劫の中に於て常に不善の心を懐きて、色を作して仏を罵らんは、無量の重罪を獲ん。其れ是の法華経を読誦し持つこと有らん者に、須臾も悪言を加へんは其の罪復彼に過ぎん」と。又云はく「若しは人有って之を軽毀して言はん、汝は狂人ならくのみ、空しく是の行を作して終に獲る所無けん○当に仏を敬ふが如くすべし」と。又経に云はく「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。此の人の罪報を汝今復聴け、其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云。五百問論に云はく「大千界微塵数の仏を殺すは其の罪尚軽し。此の経を毀謗するの罪彼より多し。永く地獄に入って出づる期有ること無し。此の経を読誦する者を毀・するも亦復是くの如し」と。論師人師等の釈、之多しと雖も之を略し畢んぬ。

 然るに、我が弟子等の中にも「未得謂得未証謂証」の輩有って、出仮利生の僧を軽毀せん。此の人の罪報具に聞くべし。今時の念仏・真言・律等の大慢謗法・一闡提等より勝れたること百千万倍ならん。爰に無智の僧侶、纔かに法華経の一品二品乃至一部、或は又要文一十乃至一帖二帖等の経釈を習ひ受けて、広学多聞の僧侶に於て同位等行の思ひを成す。之の僧侶は是くの如き罪報を得ん。無智の僧侶尚是くの如きの罪報を得ん。何に況んや、無智の俗男俗女をや。又信者の道俗の軽毀尚是くの如し。況んや不信謗法の輩をや。

 問ふ、何が故ぞ妙法の受職を受くる人、是くの如く功徳を得るや。答ふ、此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵、一大事因縁の大白法なり。化導三説に勝れ功一期に高く、一切衆生をして現当の悉地成就をせしむる法なるが故に、此の経受職の人は是くの如く功徳を得るなり。釈に云はく「法妙なるが故に人貴し」等云云。或は云はく「好堅地に処して芽既に百囲、頻迦は卵に在って声衆鳥に勝る」等云云。或は云はく、妙楽云はく「然も此の経の功高く理絶するに約して、此の説を作すを得ん。余経は然らず」等云云。縦ひ爾前方便の極位の菩薩なりとも、今経の初心始行の凡夫の功徳には及び給はず。何に況んや、我等末法五濁乱漫に生を受け、三類の強敵を忍んで南無妙法蓮華経と唱ふ。豈如来の使ひに非ずや。豈霊山に於て親り仏勅を受けたる行者に非ずや。是豈初随喜等の類に非ずや。第五十の人すら尚方便の極位の菩薩の功徳に勝れり。何に況んや、五十已前の諸人をや。是くの如く莫大の功徳を今時に得受せんと欲せば、正直に方便たる念仏・真言・禅・律等の諸宗諸経を捨てゝ、但南無妙法蓮華経と唱へ給へ。至心に唱へたてまつるべし、唱へたてまつるべし。
                   日域沙門 日 蓮 花押
 文永九年壬申四月十五日の夜半に之を記し畢んぬ。

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