光明
伊那の信盛寺へ参詣させいただいた。飯田線に揺られて下島の駅に降り立つと、正面に参道が開かれている。
この参道は。明治十三年の創立当初からあった訳ではなく、日達上人御著述の信盛寺誌によると、明治二十四年十一月に。「本堂正面より春日街道を横ぎり直接下島へ下る大門道を開拓し」とある。
また、同誌に、「当寺の土木建築は事の大小を問わず、檀徒の浄捨と汗血の結晶によって出来上がれるものなり」とあり、当時の檀信徒の寺院外護の赤誠を彷彿とさせる。
さらに、木々が生い茂る昼なお暗い坂道を登り始めると、すぐに左右一対の石柱が出迎えてくれる。 そこに刻まれた碑文には
「順逆妙緑開会関 信行直至穴霊山」とある。
「この関門を通る人は、妙法の功徳によって必ずや順逆共に仏の悟りを得ることができ、信心修行に励む人は直ちに霊山浄土の境界に至ることができるのだ」という意なのではないか。
この石柱が建ったのは、今より百三年前の大正三年七月と、石柱の裏に建立主と共に刻まれている。 御法主日如上人配下は、五月度広布唱題会の御言葉において、『法華初心成仏抄』を引用された中で、「この時に当たり、一人ひとりがこの『毒鼓の縁』の縁由を知り、今、末法にあって本因下種の妙法こそ、順逆二縁共に成仏の直進に導く大法であることを確信し、いよいよ折伏に励むことが肝要である」(大白法九五七号)と御指南あそばされている。
温故知新ではないが。百三年前も現在も、「毒鼓の緑」の妙縁は変わりなく開かれているのだ。
だったら私たちは、
「信ぜん人は心になるべし、謗ぜん者は毒鼓の緑となって仏になるべきなり」(御書1316ページ)
との御金言を肝に銘じ、これよりは、ただただ、下種折伏に精進するのみである。(苔石)