ホーム » 諸宗教破折 » 漫言放語の巻頭言に頭を抱える?編集室ー正信会

漫言放語の巻頭言に頭を抱える?編集室ー正信会

 諸宗教破折
 先日、『正信会報』巻頭言の文章を目にして驚いた。
「これまで会の議事録で中身の議論を見たことがありません。『戒壇の大御本尊の捉え方』や『聖人か大聖人か』は私は当時からどうでもいいと思っていましたし、『五十二年路線』『日達上人がどう発言された』など、当事者がいなくなった令和の世の中ではもはやどうでもいいことです」
(正信会報 一八四号)
と。それに対して会報の編集室側は、
「巻頭言(一八四号)や命での文章には『それは違うだろう。 正信会の僧侶として言って良いことと悪い事がある』と少し不満が有りましたので、当日しっかり議論させて頂きました」(同一八六号)
と、執筆者のたびたびの放言癖に不満を抱きつつ「議論」で済ませたという。
 身内の間違いを糺せないのは、彼らが「ゆるやかな連合体」(『継命』令和五年八月一五日付)と自認するように、会としての確固たる信条や方針がないから歪んだ「自尊と自負心を持った人々の集まり」(同)であるゆえ、自浄作用も働かないのであろう。
 巻頭言の執筆者は、宗門から擯斥処分を受けた元僧侶の息子である。日蓮正宗と一切関係のない所で得度した、戒壇の大御本尊との深縁なき者であるため、致し方ないのかもしれない。
 そもそも執筆者は、自身について、
「小さな会社を経営しています。褒められたこではありませんが、会社経営にかまけて、会の活動は関心がありませんでした(中略)ウィキペデアで会の現状に気づいた次第です」(正信会報一八四号)
と、片手間で〝僧侶をしていることを自白している。
日蓮正宗に昏い正信会二世僧侶
 もとより本宗の僧俗であれば、戒壇の大御本尊の拝し方や、なぜ日蓮大聖人と尊称し奉るかは、信仰上極めて大切な事柄と重々承知しているものだ。
 また正信会の古参僧侶からしても、創価学会の教義逸脱問題を端緒とした「五十二年路線」は、彼らが「正信覚醒」と称する運動の発生要因であり、自教団の存在意義ととらえているのではないだろうか。
 そして当時、総本山第六十六世日達上人が血脈付法の御立場から厳しく破折され、または慰撫教導せられて、宗内和合して広布前進できるよう肝胆を砕かれたことが拝せられる御指南こそ、正信会問題を正しく知る上でたいへん重要な証処である。
 既に「日蓮正宗宗規」の「第一章 宗綱」には、
「本宗の伝統は(中略)久遠元初自受用報身であ日蓮大聖人が(中略)弘安二年本門戒壇の本尊を建立して宗体を確立し、二祖日興上人が弘安五年九月及び十月に総別の付嘱状により宗祖の血脈を相承して三祖日目上人、日道上人、日行上人と順次に伝えて現法主に至る」
と、「戒壇の大御本尊」「日蓮大聖人」「血脈付法の御歴代上人」のすべてが、本宗の大綱であることが明示されている。
 そのような最重要事項を
「当事者がいなくなった令和の世の中ではもはやどうでもいい」とするのは、明らかに大聖人の御教えに昏い証拠である。
正直が貫けない環境から脱けよ
 しかし、血脈否定の団体内で育った環境を考えれば、巻頭言のような発言も判らないではない。
 特に日達上人の御指南には、彼らにとって都合の悪いものが数多あり、当時も、正信会僧の中には、日達上人に対し邪な批判を吐き、不都合・納得できない御指南には従わない者もいた。だから、「日達上人がどう発言された」かを二世僧侶にも信者にも、正しく教えてなどいないのだ。
 今後も当事者不在をいいことに、歴史的事実から目を背けさせ、徐々に独自の宗教団体として歩む道筋をつけたいのだろう。ならば、「日蓮正宗」とは別の名称を名乗るべきだ。
 我々は、このような邪師と、いずれ本門戒壇の大御本尊様の元に帰ってこられると思い込んでいる正信会員を、 一刻も早く折伏してまいろう。
(大白法 令和6年6月1日号より転載)

RSS 宝日記

  • 聞け創価学会! 2024年12月13日
    山本太郎氏によるYouTubeページ。創価学会、公明党は、社会を惑わし貶めることになるのではないだろうか。自民 […]
    kirimoto3

RSS 掲示板

  • 残暑見舞い 2024年9月8日
    残暑お見舞い申し上げます。 立秋は過ぎましたが暑い日が続きます。 お体をご自愛ください。

管理人

和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
お問い合わせは、ホームページのメールフォームから
電話でも受け付けております。
携帯090-3656-1453

アクセスカウンター