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信仰は理性をマヒさせるアヘンのようなものではないか

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
「宗教はアヘンである」と言ったのは、かの有名なマルクスです。彼は、当時の退廃的なキリスト教の姿を見て、宗教は人間にとって現実的な矛盾の解決になるものではなく、むしろ現実から目をそむけさせて、仮りに一時的な心の安らぎを与えているにすぎないと指摘したのです。
 宗教とは、本来一個の人間がいかに生きるかというところに、その目的があるのですが、中世のキリスト教を初めとする過去の宗教の歴史では、むしろ、宗教のために個人が翻弄されてきたというのが事実です。宗教のために人が翻弄された時ほど、悲惨なことはありません。そこではすべての人間性と理性は神の名のもとに否定され、人間は神の奴隷でしかなかったのです。マルクスが「宗教はアヘンだ」と言ったのは、このような暗い、人間性を無視した宗教を指したものでした。
 キリスト教に限らず教条主義的な宗教は、あらゆることを神の言葉に服従することだけを強調して、善良な信徒の理性をマヒさせるものなのです。
 しかし、すべての宗教が同様であるということではありません。正しい法義と正しい本尊を説き明し、ひとりひとりの人間の生命力を蘇生させ力強く人生を開拓し、真の幸の境涯を築くという、宗教本来の目的を説き続けてきた唯一の宗教があります。
 それが日蓮大聖人の仏法です。
 大聖人は、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ。『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』」(檀越某御返事・新編一二二〇)
と説かれています。
 すなわち、仏法とは世間法とかけ離れたものではなく、治生産業に励み、よき人材となって成長していくことを目的としているのです。
 日蓮大聖人の仏法を持つ者は、この精神を根本として、社会の中にあっても積極的に行動し、あらゆる分野で活躍しています。
 人生は、幸・不幸・悲・喜こもごもです。しかし、大聖人の仏法を信心する者は、たとえ逆境の中にあっても、信仰の功徳によって、苦難にも勇敢に立ち向かい、諸難を乗り越えていけるのです。
 真実の宗教は、人間の意識を消極的にするものではなく、むしろ、信心の力によって不幸をも克服する強い生命力を発揮させ、積極的に生きる力を育くむものなのです。弱い人間が信仰に逃避して、つかの間の安らぎを求める、というようなものではけっしてありません。
 アヘンのごとき邪教に惑わされることなく、求道の心を開き、勇気を持って真実の正法に帰依し、その良薬を口に含み、正法を味わうときにこそ、真の人生のはつらつとした生き甲斐を見い出すことができるのです。

折伏実践のために

仏教とキリスト教の違い
 世の中には、人間の理性や感情をマヒさせるような宗教がたくさんあります。そうしたアヘンのむとき宗教の根本的な誤りを指摘し、真実の信仰とはどういうものかを教えてあげることが大事です。
 そこで仏教とキリスト教の違いを明確にしましょう。そうすれば、仏教こそが人間の理性と感情を正しく導く信仰であり、正しい人生を確立する宗教であることが自ずと判ります。
 まず万物を創造した唯一の神が存在すると仮定してみましょう。しかし神を創造したのは何かと問い正しても、その原因が判らないのです。
 もし、その絶対の神が人間を支配しているならば平和な世界を創造することができるはずなのに、なぜ人間や社会に不幸なことばかり起きるのでしょうか。
 世界で起きている宗教がらみの戦争やテロ行為などに対して、神は全く無言のままで無力なのです。
 しかも、神が人間を創造したというのであれば、造った人間を救おうと不幸にしようと、すべては創造主たる神の意志しだいだということになります。
 この時点で、どこにいるか誰にも判らない神によって、人間の理性や自由はまったく失われています。神の名のもとに人間は束縛され、精神的な抑圧を感じているのです。
 またキリスト教を初めとする創造主としての神を立てる宗教では、人々への愛や救いを説きますが、人関は決して神にはなれず、神になる道も説かれていません。。
 仏教ではそうした創造主のような神を説きません。仏教の「因果の教え」から言えば、誰かが、あるいは何かが人間や世界を創造するということはあり得ないからです。’
 仏教では、絶対的な神が万物を創造したという考え方は、仏教で説かれる因果の道理を全く理解していない妄想だとして明確に否定しています。

 仏法によって人生を変えることができる
 仏とは「目覚めた人」「真理を悟った人」という意味です。仏は、仏道を修行して悟りを得たのです。その仏が悟られた基本的な響兄が、心と生命における因果の法則(道理)です。これは生命や物事には必ず原因と結果があるということです。
 仏教では世界は創造神による創造ではなく、すべて因果によって存在していると説くのです。仏と人間の関係においても、その本性は別のものではなぐ、人間の中にも仏と同じ本性(仏性)が具わっており、人間も等しく仏に成れると説くのです。
 つまり仏教は因果の法則に根ざして、世間と生命の実相を示し、人間の正しい生き方や真実の幸福を求めていく宗教なのです。
 仏教の中でも日蓮大聖人の仏法は、正しい御本尊と教義のもと自らが信心修行することによって迷いを打ち破り、苦悩を克服することができるのです。
 日蓮大聖人の教えは世界に流布していますが、カトリック教会から脱会したある海外信徒の方が仏法の「因果の教え」に触れたときのことを新鮮な驚きをもって語っています。それは次のような体験です。
 「私はその会合に出席し、『原因と結果』という教えに魅了されました。人生は私達が自ら作り上げている原因からなる鎖。要するに『私達は、ある神に造られたのでもなければ、神が私達に与える試練で苦しむ必要もない。私達は、ある原因を背負いながら生まれ、それに応じた結果を体験するのだ』と。ということは、同時に、私達の人生は変えることができるのだと思いを巡らせ、心を動かされました」(法華講員体験シリーズ⑤広宣流布の時なり 三二ページ)
 この方は、日蓮大聖人の仏法によって、自分の苦悩が喜びとなり、人に対する思いやりへと一変したと述ぺておられます。
 不幸と苦しみの原因は謗法の害毒
 キリスト教では、人間の苦しみは「原罪という、アダムとイプが世界を創造した神に逆らった罪から起きたのだと説きます。
 しかし仏法では、人生における幸・不幸の結果は、神の裁きや原罪によるのではなく、人間自身の「三世」(過去・現在・未来)における「業」(行為)によると説くのです。
 因果の教えによる業とは、悪い行為をすれば苦しい結果になり、善い行為をすれば楽しい結果になるということです。
 この三世の因果のことわりは、仏の悟られた真実なのですから、私たちは三世の因果を明かした正しい仏法を信仰することによって、真の幸福に至ることができるのです。
 御法主日如上人猊下は、
  「謗法の害毒によって世の中が極度に混乱している今この時、我々がなすべき最も大事なことは折伏であります」(御法主日如上人猊下御指南集五 三四ページ)
と仰せです。人間の不幸と苦難の一番の原因は、これらの逃避的な宗教も含めて謗法の害毒にあることを教えてあげなくてはなりません。
 大聖人の正法によってのみ、自らの成仏と全世界平和を実現することができます。正しい理性と道理と勇気をもって、力強く折伏してまいりましょう。

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管理人

和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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