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どの宗教が正しいのか自分でたしかめてみたい

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 現在日本における宗教法人の総数は、十八万二千二百三十七あり、法人格を持たない宗教団体を含めると二十二万四千余もあるといわれています。(平成十六年 文化庁調査による)
 これほど多くの宗教を、実際に自分の目で善悪を確かめたいといってもそれは不可能なことです。
 またそのなかで仏法の教えは特に難信難解であり、体験の世界でもありますから、私たちがただ頭で宗教の正邪を理解しようとしても、十年、二十年、または一生涯を費やしてもできることではありません。結局はどの宗教が正しいのかもわからず、信仰の道に入ることもできないでしょう。
 たとえば川を渡ろうとする人が橋の手前で、この橋はいつ、誰が作ったのか、材料はなにか、今までこわれたことはないか、などと詮索し続けて、結局向う岸に行きつくことができなかったという話があるように、すべてのものごとに対して、理解し納得しなければ信用しないという人は、一日たりとも生活できなくなるでしょう。
 時には批判し、詮索することも必要ですが、元来仏教に限らず、すべて宗教は信ずることから始まります。
 法華経には、
「信を以て入ることを得たり」(譬喩品第三・法華経一七五)
とあり、日蓮大聖人は、
「仏法の根本は信を以て源とす」(日女御前御返事・新編一三八八)
と教示されています。
 また大聖人は、
「有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」(新池御書・新編一四六一)
と説かれて、たとえ仏法の教義を理解できる人であっても、信ずる心のない人を救うことはできないと教示され、さらに、
「法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに菴羅果を取って掌中に捧ぐるが如し」(十法界事・新編一七六)
と仰せられ、真実の仏法を信ずるとき、一切の宗教の浅深は、あたかもたなごころを見るように明らかになるのであると説かれています。
 正しい御本尊を信受し修行することによって、あなたの真実を求め、見きわめる力は、より正しく発揮され、人生に大きく役立ってゆくことでしょう。

【折伏実践のために】

夥おびただしい数の宗教
 「どの宗教が正しいのか自分で確かめてみたい」という問いから、その人が宗教・信仰を求める気持ちを持っていることが判ります。そのため、自分の目で一つひとつの宗教を確認し、その経験知から、どの宗教が正しいのかを自分で判断したいと思うのでしょう。
 しかし本文にもあるように、宗教の数は非常に多く、その教えの内容をはじめ、信仰の仕方も多岐にわたるため、結局は、その宗教が本当に正しいかが判らず、したがって正しい信仰に入ることもできず、一生が徒と労ろうに終わることになるのです。 
 
 教相判釈
 本来、宗教とは、天台大師が『法華玄義』に、「聖しょう人にん下しもに被こうむらしむるの言ことば」と述べるように、聖なる境地にある方が、低劣な人々を教導するものです。その基準は、適切な真理観と価値観、そして道理を基本とする善悪を教え、人々を正善の道へと赴おもむかせる点にあります。なぜなら個々人の立場からは、それが大きな充足と幸福に繋つながる道であり、社会的な立場からは、それが真の平和社会や国家の顕現に繋がる道だからです。
 この点について、日蓮大聖人様の仏法は、『聖愚問答抄』に、
「抑そもそも仏法を弘通し群ぐん生じょうを利り益やくせんには、先まづ教・機・時・国・教法流布の前後を弁わきまふべきものなり」(御書 四O二㌻)
と 仏法を正しく判断するために示された五つの教判をもって、私たちが信仰すべき正しい宗教が説かれているのです。
 したがって、真実の聖人=本ほん因にん下げ種しゅ仏法の御本仏日蓮大聖人様が説く教えに随ずい順じゅんし、正善の道を正直に実践していく敬けい虔けんな姿勢こそが大事なのです。
 
 自分の都合や欲得で選ぶと必ず邪教に陥おちいる
 宗教の基準を持たず、やみくもに「自分で確かめたい」などと考えると、自分の都合や欲得をもとに宗教を選ぶことになります。この姿勢について大聖人様が、
「善なれども大善をやぶ破る小善は悪道に堕つるなるべし」(同 三二三㌻)
と仰せのように、利己的な信仰こそ、実は仏様が最も嫌った姿勢なのです。
 その結果として、特に占いの流行などは身近にある典型で、そこから「病気平癒の○○」とか、「商売繁盛の△△」、「学問の神XX」など、低劣な宗教の謳うたい文句に化ばかされ、わずかな通力を売り物にした邪教信仰に陥おちいってしまうのです。
 それぞれの宗教で説く真理観や価値観等は皆異なり、そこに宗教の高低・正邪等が表われます。偏へん狭きょうな教えでは普ふ遍へん的な真理に至らず、真理に立脚しないため真の価値も現われません。そこで説く善悪の判断には都合によってぶれが生じるため、真の正善の道は示されません。こうした宗教を、邪教と呼ぶのです。
 邪教は、道徳的にも教理的にも、一面で勝すぐれたよいことを説きながら、真実に入る手前で邪道に引き込みます。その手法は、真実の妙法を求める心に障さわりをなし、人の欲心を刺激し、真実を説く宗教への瞋いかりを増長させ、因縁果報の道理に迷わせるのです。人の心に巣くう貪とん瞋じん癡ちの三毒という煩ぼん悩のうが、邪教の悪業によって、迷妄や苦悩の悪循環を累かさねていくのです。
 したがって、その人が仮に宗教の判断基準を自分で設えたとしても、正法正義の信仰を欠いていたら、必ず邪知邪教の巧妙な手口に引き込まれてしまいます。
 『上野殿後家尼御返事』に、
「法華経の法門をきくにつけて、なをなを信心をはげ励むをまこ真との道心者とは申すなりに」(同 三三七㌻)
と仰せです。慈悲の心で、共に正善の道を進めるよう折伏してまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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