人生の幸福とは努力以外にない

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 人生にとって、努力はきわめて大切なものです。なんの努力もせずに、幸せな人生を築けるはずがありません。
 しかしながら、努力といっても、ただ自分の思いつきで、がむしゃらに何事にも挑戦さえすればよいというものではありません。
 たとえば、これから書道を習おうとするとき、立派な先生について、習練と努力を重ねる人は、着実に進歩することでしょう。
 しかし、師を求めず、自分の才能と、自分の信念で努力さえすればよいといって、ただ毎日書きなぐっているだけでは、上達することはできません。
 このように、その努力をより価値あるものに実らせるためには、良き指導者の正しい教導に従って努力してこそかなうのです。
 ましてや意義ある人生、幸せな家庭、人生の充実した喜びを持つためには、その基本となる人生についての、最大にして最高の指導者である仏の教導に触れるということが大切です。
 私たちは人生の土台となる根もとに、真実の師である仏の教えを持ち、その上に幹となる自分自身の人格と人間性を磨きつつ、努力と精進を重ねる時、はじめて緑したたる大樹へと成長するのです。
 日蓮大聖人は、
「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ」
(立正安国論・新編二四三)
と仰せられています。
 すなわち、青ばえのような小さな虫でも、駿馬の尾につくことによって万里を馳せ、つる草も松の大木にかかることによって、天高くのびていくことができるのです。
 このように私たちもいかなる道を歩もうとも、正しい信仰を根本として努力を重ねるならば、正法の功力によって福徳の花が咲き、その努力が大きな実を結び、真実の幸せな生涯をまっとうすることができるのです。

【折伏実践のために】

幸福の定義
 「幸福」とは、いったい何でしょうか。辞書を見ると、「恵まれた状態」・「満ち足りていること」・「不平や不満がないこと」・「たのしいこと」・「しあわせ」等と書かれています。
 人間には誰でも五欲と言って、眼の色しき欲よく、耳の声しょう欲よく、鼻の香こう欲よく、舌の味み欲よく、身の触しょく欲よくがあります。これを満足させることを楽しみとするのです。しかし、この五欲も、度が過ぎれば、「貪とん欲よく」と言って、様々な煩悩を生み出します。また、さらに大きくなって「著じゃく欲よく」となると、十四誹ひ謗ぼうの一つですから、無間地獄に堕ちる原因となります。
 日蓮大聖人様は、真の「幸福」について、『御義口伝』に、
「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成りて大きなる徳さいわい有るなり。功くも幸さいわいと云ふ事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功おおきなる徳さいわいとは即身成仏なり、又六根清浄なり。法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と意得べきなり」(御書 一七七五㌻)
と仰せです。正しい信仰によって、心と体が清浄になること、悪を滅して善を生ずることが本当の「幸福」であり、功徳なのです。
 また、大聖人様は『立正安国論』に、
「汝須すべからく一身の安あん堵どを思はゞ先づ四表の静せい謐ひつを祈いのるべきものか」(同 二四九㌻)
と仰せです。自分が幸せになりたかったならば、周りの人たちを幸せにしなさいとの御指南です。
 自分だけの「幸福」というものはあり得ません。自分自身の一生成仏と全世界の広宣流布、自行化他ということが、「幸福」の必須条件です。
 
 努力と精進
 「努力」に近い言葉に、仏教では、「精しょう進じん」という言葉があります。
 たとえば、川を泳いで渡るのに、途中で泳ぐことを止やめると溺おぼれてしまいます。目的の岸に到達するまで泳ぎ切ることが精進です。
 しかし、「努力」にしても、「精進」にしても、めざすものを教えてくれる人が間違った人であったり、めざす岸が間違った悪い場所であったり、泳ぎ方が下へ手たであったり、全く進まなかったならば、「徒労」になってしまいます。
 
 末法の衆生を幸福にする善知識
 末法は五ご濁じょくの時代です。五濁とは、時代・社会の濁にごり(劫こう濁じょく)、人間そのものの濁り(衆しゅ生じょう濁じょく)、先天的な五ご鈍どん使しによる生命の濁り(煩ぼん悩のう濁じょく)、後天的な五ご利り使しによる生命の濁り(見けん濁じょく)、生活が乱れて寿命が短くなる濁り(命みょう濁じょく)のことを言います。
 大聖人様は、『三三蔵祈雨事』に、
「末代悪世には悪知識は大地微み塵じんよりもをほ多く、善知識は爪そう上じょうの土どよりもすく少なし」(同 八七三㌻)
と仰せです。
 勉学でもスポーツでも、その他のことでも、よい指導者に巡り合ってその指導に従い努力をすれば、上達はするでしょう。それは結構なことですが、皆が願う「幸福」となると、その指導者にはなかなか巡り合うことができません。
 「幸福」になるためには、「不幸」の原因を断たなければならないのです。ところが、末法の凡夫は、その「不幸」の原因が何なのかが判りません。鈍根の指導者・悪知識の指導者が「幸福」になる教えを説いても、それを実践・努力した者は、「幸福」の彼岸には到らないのです。
 大聖人様は、『開目抄』に、
「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思し惟ゆいする」(同 五三八㌻)
「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(同 五七七㌻)
と仰せです。
 大聖人様のみ、人間の不幸の原因が謗法であることを御存知でした。これは大聖人様こそ、末法の一切衆生を救済する御本仏であられるからです。
 私たち末法の衆生は、大聖人様の仰せのままに、世に蔓延はびこる謗法を破折し、正法を信仰することによってのみ、真の幸福・成仏に到るのです。
 
 異体同心して自行化他に精進
 『三三蔵祈雨事』に、
「夫それ木をう植ヘ候には、大風ふ吹き候へどもつよ強きすけ扶をかひ介ぬればたう倒れず。本より生おひて候木なれども、根の弱きはたう倒れぬ。甲か斐い無き者なれども、たすくる者強ければたうれず。すこし健けなげの者も独ひとりなれば悪あしきみち道にはたうれぬ」(同 八七三㌻)
と仰せであり、『法華初心成仏抄』には、
「譬へばよき火打とよき石のかど角とよきほ火くち口と此の三つ寄り合ひて火を用ふるなり。祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(同 一三一四㌻)
と仰せです。
 正しい師匠・正しい同志と共に力強く仏道修行に精進することによって、私たちは「幸福」という境界に到達できます。誤った宗教を破折する上においても、指導教師のもとに一人ではなく講員皆で助け合って活動することが大事なのです。
 さあ、法華講員の皆さん、明年の御命題である「全支部法華講員五十パーセント増達成」をめざして大同団結して、真の幸福の道を歩もうではありませんか。また、折伏によって、共に歩く同志を増やしていきましょう。
 御法主日如上人猊下は、平成二十六年十月度広布唱題会の砌、
「何事も、事を為なすには、まず決意することが肝要であります。(中略)まさしく、志を高く決意を持って妙法広布に身を捧げ折伏に励むか、ただ惰だ眠みんを貪むさぼって無駄な日を漠然と過ごして悔いを万代に残すか。そこにおのずと大きな格差が生じ、幸・不幸、成仏・不成仏の隔たりが歴然と顕れてくるのであります」(大白法 八九五号)
と御指南されています。
 御法主上人猊下の御指南の通り、志こころざしを高く決意を持って妙法広布に身を捧ささげ、共に折伏に努力してまいりましょう。

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管理人

和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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