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八卦、星占いなど多くの占いがあるが、どのように考えたらよいのか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 人は誰しも未来を知りたいと願い、幸福を得たいと望みますが、そのもっとも手近にある方法が占いであるといえます。
 しかしながら占いで将来を正しく見極め、幸福な家庭を築き上げた人が世の中にどれほどいたでしょうか。
 努力なしに望みをかなえようとしたり、実力以上のものを無理に求めようとするところに、悲劇や破綻が起こるのであって、占いを信じ安易に自分の人生を賭けてしまうことほど危険なことはありません。
 初めは遊び程度のつもりが次第に夢中になり、ついには占いなしでは身動きがとれなくなってしまったという例もあるように、占いを信じたことによってかえって苦悩を増す結果が多く、むしろ占いには近づかない方が賢明であろうとさえいえます。
 占いは古くは易学による八卦見が有名ですが、今日ではその他多くの種類があります。たとえば、現在人気のある星占いは、ロマンチックなイメージからか、とくに若い女性の間ではもてはやされているようですが、その主流であるホロスコープ占星術の原点ともいうべき「テトラビブロス」の著者は、
 「占星術は天文学の応用で、天文学ほど確実性のあるものではけっしてない」
とのべています。このように星占いは、学問的に確実性のない占星術を基礎としているのですから、きわめて不完全なものなのです。星占いが広まること自体現代社会の刹那的な風潮を反映しているように思われます。
 星占いをはじめとする占いはすべて運命学が根底となって組み立てられているのですが、基本となる運命学そのものは、学問というにはほど遠く、人間の運命を本人の努力と関係なく、生まれつき定まったものとみる非現実的なものにすぎません。
 したがってすべての占いは、非合理的な運命論から発しているのですから、自然科学が発達すればするほど、その欠陥が明白になってくるでしょう。
 明るい未来が幸福な生活は、正しい信仰を根本に自分自身で築くものであり、それは御本尊を信ずる功徳によってはじめて実現できるのです。

【折伏実践のために】

 占いが蔓延はびこっている現実
 一般に「占い」とは、辞書を引いてみると、
「占象うらかたによって神意を問い、未来の吉凶を判断・予想すること」(広辞苑)
とあります。本文にもあるように、自らの未来を知り、よりよく生きたいと願うのは人としての性さがですが、それを占いに求める人々がいるようです。
 今世間では、「占い」と言われるものが蔓延はびこっています。例えば、多くのテレビ番組や雑誌に占いのコーナーがありますし、街角には占い師やその看板などを多く見かけます。最近では、家族連れで賑にぎわうショッピングモールなどにも占いのコーナーが設けられるほどです。
 こうして見ると、興味の有る無しにかかわらず、私たちは「占い」に接しない日はないと言っても過言ではありません。
 占いには、易経に基づいて行われる八卦(占い師が筮ぜい竹ちくという細長い数十本の棒等を用いて行う占い)や星占いが有名ですが、数え切れないほどの種類があります。「風水」や「姓名判断」、さらに「おみくじ」なども占いです。
 中には、人の運命を扱うのにもかかわらず、あろうことか運勢のよいものから順位をつけたり、くだらない〝しゃれ〟に任せるものなどもあります。
 さらに、こうした占いの宣伝には「よく当たる」とあります。
 この文句を信じて占いにのめり込む人々が絶えませんが、果たして本当に占いが当たり、幸せになった人がどれほどいるものなのでしょうか。
 諺ことわざに、
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」
とあります。これは占いの結果が悪い時に使われる言葉ですが、占いは当たることもあれば当たらないこともあるということは一般の常識なのです。
 しかしながら、多くの人々は、その占いが当たろうと当たるまいと一喜一憂し、毎日の生活を送っているのが現実です。
 
 占いに依存するは愚の骨こっ頂ちょう
 占いは、おおよそ人の未来を占うのにもかかわらず、それぞれの心の持ち方や考え方、行動(振る舞い)を考慮して行われるものではありません。
 すなわち、占いには、因果の道理を無視した偶然性や一過性のもの、または統計に基づいて極端に結論づけたものが拠より所として用いられています。
 しかし、仏法においては、
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せは、其の現在の因を見よ」(御書 五七一㌻)
と説かれています。私たちは因果の正しい道理を知って、人生を歩んでいくことが大切なのです。
 また、それぞれの過去世からの因縁が異なりますから、お互いに顔形が違うように、それぞれの境界も異なります。
 どうして、物事を固定化して結論づける占いによって一人ひとりの人生を計ることができえましょうか。
 こうした占いの吉凶に左右される生活を送ると、次第に自らの主体的な心が奪われていき、自らの努力によって幸福を得ようとする意欲を失わせていくことに繋つながっていきます。
 私たちは、占いに頼るのではなく、正しい因果の理法が説かれている仏法を根本に、自らの決意と精進をもって、力強く日々の人生を歩んでいくことが大切なのです。
 大聖人様は『一生成仏抄』に、
「深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈おこたらず磨くべし。何いか様ようにしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(同 四六㌻)
と仰せられています。大聖人様が顕わされたに正しい御本尊様を拝して、朝夕の勤行・唱題、そして折伏に励むことが、幸福を築くための最高の行動です。
 その仏道の功徳を毎日積んでいくことによって、自身の境界が未来に大きく開かれていくことでしょう。
 これに比べて、毎日の占いの情報などに興味を持つ行為は、たいへん劣るものであり、かえって心が惑わされる弊害になることを知るべきです。
 
 占いに翻ほん弄ろうされる人々を折伏しよう
 これまで述べてきたように、世間に占いが充満しているということは、それに惑わされている人々が多くいる、ということです。この現状があるわけですから、私たちはけっして占いの存在を「それほどのものではない」と侮あなどってはなりません。
 また、占い師の中には、占いと称して鑑定後に寺社での祈祷を勧める者さえいます。占い師と寺社が手を組んでいるのではないかとの想像を禁じえませんし、幸福になりたいと願う人を弄もてあそんでいるようにも見えます。
 実際に、日蓮正宗の法華講員である皆さんの中にも、入信する前に占い師に翻弄された経験を持つ人が少なくないと思います。
 詰まるところ、「占いは邪よこしまな教えに踏み込んでしまう悪業の一つ」であることが言えるのです。
 私たちは「占いは正しい信仰の妨げである」ことを知り、占いなどの俗信に惑わされる多くの人々を救うために立ち上がりましょう。
 そのためには、やはり折伏しかありません。ただし、こちらから懸命に正しい信仰について話をしていても、いわゆる「占い好き」も様々ですから、聞く耳を持たない人も多くいます。
 しかし、御法主日如上人猊下は、
「まさしく一切衆生救済の最善の慈悲行こそ折伏であり、その折伏は、妙法の話を聞いて信じた人はもちろんのこと、『毒鼓の縁』が示すように、たとえ聞く心がない人でも、やがて妙法を耳にした縁によって、必ず逆縁成仏することができるのであります」(大白法 八八三号)
と御指南されています。相手が聞く耳を持たずとも、粘り強く果敢に折伏に励みましょう

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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