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信仰は必要な時だけすればよいのではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 〝信仰を必要とする時〟とは、どのような時を指すのでしょうか。苦境に立ってわらにもすがりたくなる時なのでしょうか。それとも慣例的に神社仏閣に参詣する正月や盆、彼岸を指すのでしょうか。あるいは冠婚葬祭の時でしょうか。または人生のなかで老境に至った時という意味でしょうか。
 こうしてみると、〝信仰を必要とする時〟といっても、受けとり方によって意味がまったく異りますから、一部分のみをとらえて、そのよし悪しを論ずることはできませんが、いま質問の内容について、わかりやすく説明するために、〝信仰をしなくともよい時〟があるかどうかを考えてみましょう。
 そのためには、まず信仰にどのような意義があるかを知る必要があります。
 信仰の意義として大要次の三点が挙げられます。
 第一に正しい宗教は、人間の生命を含む時間空間を超えた宇宙法界の真理を悟った本仏が、私たち衆生に対して人間のもっとも大切な根本の道を教え示されたものなのです。それはあたかも人生という草木を生育している大地のようなものであり、人間という電車を幸せに向って快適に走らせるためのレールのようなものです。私たちの人生は老いも若きも平等に時々刻々と過ぎ去って行きます。誰もが毎日毎日が、生きた草木であり、走りつつある電車なのです。はたして生きた草木にとって大地がなくてもよい時があるのでしょうか。また走りつつある電車にレールがなくてもよい時があるのでしょうか。宗教とは人間の根本となる教えということであり、宗教のない人生は人間としての根本の指針を欠落した、さまよえる人生というべきなのです。
 第二に正しい宗教を信ずることは、成仏という人間としてもっとも崇高な境界を目標として修行することです。成仏とは、個々の生命に仏の力と智慧を涌現させ、何ものにも崩れることのない絶対的に安穏で自在の境地を築くことであり、この高い目的地に至るためには、たゆまぬ努力と精進が必要です。どんな世界でも、高い目標を目指し、ひとつの道を極めるためには、正しい指導とたゆまぬ修行鍛錬がなければならないことはいうまでもありません。思いついた時、気が向いた時だけ一時的に信仰するというのは、学生が気が向いた時だけ学校に行くということと同じであり、真の目的をなしとげることはできません。
 第三に正しい宗教とは人生の苦悩を根本的に解決するためのものであり、これを実践(信仰)すれば自ずと苦悩を乗り越える勇気と智慧などの生命力が備わるのです。それのみならず正法を信ずることによって、日常生活が仏天の加護を受けることも厳然たる事実です。自分の将来に対する不安や性格的な悩み、さらには家族や職場での問題など、誰もが多くの解決すべき難問や悩みを抱えながら生きているのではないのでしょうか。また明日どころか一時間さきに何が起きるかわからない私たちは、自分の人生がいつ、どこで幕を閉じるかもわからないのです。〝必要な時が来れば信仰する〟などと言って、今日一日を自分勝手な思いつきで過ごすことは、かけがえのない人生の時間を無駄にしているといわざるをえません。
 あなたにとって〝信仰が必要な時〟、それはいまを置いてないのです。

【折伏実践のために】

 四苦八苦の人生
 とかく信仰は、必要なとき、困ったときにやればよいと考えている人が多くいます。しかし、一生涯何事もなく、平穏無事な生活が送れるものではありません。
 むしろ人の一生は、悩みや苦しみの連続であると言えます。
 つまり、人の力だけでは、どうしても解決できない根本的な苦悩というものが存在するのです。
 以前にも取り上げましたが、仏法において「四苦八苦」という根本苦が説かれています。四苦とは、この世に生を受けた者は、老い、病み、死ぬことを避けられないという生老病死の苦しみのことです。この他にも人生の中で「憎い者に会う苦しみ」「愛する者と別れる苦しみ」「求めても得られない苦しみ」「人間の心身そのものの苦しみ」等の四つの苦があり、これらを加えて八苦と言います。
 たとえ世間において恵まれた生活を送っているように見える人であっても、この四苦八苦を避けることはできないのです。また人生において「苦」を知らないという人は、真の幸福に気付くことなどできないでしょう。
 すなわち、人間が抱える根本的な苦しみを自覚してこそ、初めて幸福な人生に目覚めることができると言えます。
 本文には、信仰の意義として三点を挙あげて述べていますが、こうした人生の四苦八苦を何によって乗り越えていくかを明確に説き明かし、私たちに生きる勇気と希望を与えてくれるのが、正しい信仰なのです。仏様の教えを正しく実践すれば、智慧と勇気が涌いて、悩みや苦しみを乗り越え、幸せな生活を送ることができるのです。
 
 信仰が必要なのは「今」
 そもそも私たちが幸せになるのも不幸せになるのも、そこには必ず原因があります。仏法では、幸・不幸は、私たちの過去世における様々な原因によって顕われた報い(結果)であるとして、因果の理法を説いています。
 心地観経には。
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」
と示されています。この意味は、私たちが、過去に何をしてきたのかを知りたければ、現在の姿を見れば判る。また、未来にどうなっていくのかを知りたければ、現在何をしているかを見なさい、というものです。
 御法主日如上人猊下は、
「因果の理法は厳然としているのでありまして、これを無視して真実の幸せは存在しない」(大白法 八二〇号)
と仰せです。私たちは、この因果の理法を正しく知ることによって、何が幸せの元であり、何が不幸の元であるか理解することができ、また幸せのための真の方ほう策さくを見出して、正しく進んでいくことができるのです。
 この道理に照らし合わせて考えてみても、三世に亘わたる揺るぎない真の幸福を得るためには、直ただちに正しい信仰に励んでいくべきなのです。
 すなわち、信仰は必要なときだけ行うものではなく、日々、信心修行に励んでいくことが大切です。
 
 正しい信仰を教えてあげよう
 日蓮大聖人様は『聖愚問答抄』に、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし」(御書 四〇三㌻)
と仰せですが、現在は末法の時代にあって、正しい仏法に背そむく邪宗教が世の中に氾はん濫らんしています。また、邪教とは知らずに信じている人たちが数多くおり、社会(政界・経済界・教育界など)に少なからず影響を与えていることも事実です。
 こうした風潮の世の中にあって「信仰は必要なときだけすればよいのではないか」などと安易に考えていてはなりません。
 「〝信仰が必要なとき〟、それは今を置いてない」のですから、大聖人様の正しい仏法に基づいた今為すべき信心修行、つまり折伏に大いに励むことが重要なのです。
 大聖人様は、
「只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(同)
と、相手の誤った法門や間違った考え方等をしっかりと正すべきことを仰せです。
 未だ正法に巡り合っていない人たちに、大聖人様の正しい真実の教えを信仰する必要性を説き聞かせることが肝要です。
 御法主日如上人猊下は、
「人が溺おぼれているのを見て助けない人がいないように、我々も、知らず知らずのうちに誹謗正法の罪を犯してしまっている人たちを救っていかなければならないのです。それが我々法華講衆の努つとめなのです」(大白法 六九八号)
と御指南されています。
 私たちは今、一人ひとりが為すべき使命を自覚し、大御本尊様への絶対の確信と慈悲心を持って折伏を実践し、多くの人たちを大御本尊様のもとに導いてまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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