ホーム » 正しい宗教と信仰 » 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法) » 宗教の世界は、科学的根拠や証明があいまいではないか

宗教の世界は、科学的根拠や証明があいまいではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 「科学的」とはいったいなんでしょう。ふつう科学とは、物事や現象について、その性質・変化・他との関係などを実験を通して、体系化し、応用を考える学問のことです。
 この科学の基本となる道理が因果律です。すなわち一定の物事(因)が一定の条件と作用(縁)によって、一定の結果を生ずること、たとえば酸素と水素を一定条件のもとで化合すれば、誰がいつどこで行っても、かならず水を生ずるようなものです。この普遍的な因果律が「科学的」という言葉の意味だと思います。
 さてこの原則をもって現在の多様化した宗団・宗派を見ると、質問のような〝あいまい〟な、しかも一見してインチキとわかるような宗教がたくさんあります。なかには、教祖が発狂状態になったことを、神が宿ったと称して支離滅裂な言葉を神のお告げとして崇めるものや、祭壇に供えた水は霊験があるといって病状を無視して多量の水を飲ませるもの、あるいは煙に触れるだけで無病息災になると説く宗教など、道理にかなった教義がまったくない宗教や迷信としかいいようのない宗教も数多くあります。このようないかがわしい宗教を別として、文証・理証・現証に照らして正当な宗教についていえば、我々がある事実(宗教)を科学的な眼をもって研究することは大切なことですが、現在の科学的知識で計れないからという理由で、現実の事象を否定したり、〝非科学的〟と決めつけることは、それこそ〝非科学的〟な態度というべきでしょう。
 近代の科学は物質文明の中で発達し、多大の貢献をしてきましたが、精神文明ことに人間の心に関してはまったく手つかずの状態です。
 にもかかわらず、仏が人間生命の本質と法界の真理を深く観達して説かれた仏法を、人智の集積ともいうべき現代の科学をもって証明しようというのは無理な話です。
 それはあたかも、尺とり虫が自分の歩幅と歩数で、空を飛ぶ鳥の飛距離を計ろうとしているのに似ています。
 もしどうしても、日蓮大聖人の仏法の道理と現証という科学的説明によって論証せよというのならば、釈尊の予証のとおり現実の濁世に出現された日蓮大聖人が、予証どおり大難に遭いながら一切衆生を成仏せしめんと大慈悲をもって、大御本尊を図顕建立された事実、そしてそれを信ずる多くの人々が大聖人のお言葉どおり、歓喜と希望に満ちた人生を歩んでいるという実証こそ、〝科学的〟現実そのものではありませんか。
 将来、科学が仏法をどこまで証明できるかわかりませんが、人間を生命の根本から蘇生させ、豊かな生命力を涌現させる仏法が、七百年間富士大石寺に厳然と伝えられ、未来永劫にわたって全世界の民衆を救済得道せんと威光をもって照らされている事実を知るべきでしょう。

【折伏実践のために】

 今、何が大切なのか
 現代社会において、これまでの科学技術の成果は、社会のすみずみまで浸透しており、私たちの生活に利便性や豊かさをもたらしてくれています。
 しかし、生命の問題が解決されることなくして、どのような知識も正せい鵠こくを射ることはできません。
 中阿あ含ごん経きょうには「毒矢の譬え」という有名な逸いつ話わがあります。
「ある時一人の弟子が釈尊に対して『この世は永久のものか、無常のものか。世界には果てがあるのか。仏様は死後も存在するのか』などの質問を投げかけました。釈尊は、『毒矢に当たり苦しんでいる者が、矢を抜く前に、何者が放った矢なのか。私を射たのはどんな弓で、どのような形をしているのか。矢の材質は何で出来ているのか。これらのことがすべて判るまでは矢を抜いてはならないと言うならば、その人の命はなくなってしまう。必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである』と仰せられた」
というものです。ここで釈尊は、自らが真に問題としなければならないことを後回しにして、他の問題に目を向けていることを戒いましめられています。
 現在、科学文明の発達した社会にあって物質的な知識が進む反面、道徳の退化と共に邪智がますます横行し、悲惨な事件や事故、災害が頻発し、人々が真に安穏な生活を営んでいるとはけっして言えません。
 正まさしく仏法で説かれる「五ご濁じょく悪あく世せ」の様相を呈しています。その原因こそ、人々の煩悩による心身の濁りや思想の迷いにあるのです。
 仏法は、仏が人間生命の本質と法界の真理を深く観達して自らの生命に迷う私たち凡夫に説かれた教えであり、これを現代科学をもって証明しようとしても無理なのです。
 私たちは、正しい信仰を持つことで、仏法の道理を基本とする真理観と価値観を得て、善悪を判断し、適切な行動をすることができるのですから、患者が医師を信じて病を克服するように、信じて行ずることを忘れてはいけません。
 
 実践にこそ功徳がある
 本文のように、「科学の基本となる道理が因いん果が律りつ」ですが、そもそも仏法は、因果の道理を説いているのであり、それに基づいて実践修行(因)することによって必ず現証(果)として即身成仏の境界を顕わしていくことができるのです。
 宗祖日蓮大聖人は『三三蔵祈雨事』に、
「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(御書 八七四㌻)
と仰せられています。
 大聖人は御一期の御化導の中で、仏法の不可思議な現証を御示しになられていますが、その現証は、妙法を信じ行ずるすべての人に顕われます。
 病苦を克服できた、人間関係が好転した、正しい信念と確信を持って人生を考えられるようになった、強い生命力をもって生活できるようになったなど、多くの人が現実に功徳を得てそれを実証しています。
 仏法は人生全般にわたる喜びや苦悩を解決するために説かれたものであり、ただの空理や空論を並べるために説かれたものではありません。
 日蓮大聖人は、『一念三千法門』に、
「百千合はせたる薬も口にのまざれば病も愈いえず。蔵に宝を持もてども開く事を知らずしてかつ餓へ、懐ふところに薬を持ちても飲まん事を知らずして死するが如し」(同 一一〇㌻)
と仰せられています。何よりも、南無妙法蓮華経の題目を唱え、教えのままに修行していくことが大事です。
 
 人の振る舞いにこそ
 科学の発展には、新たな問題や不幸が伴っていることを見過ごしてはいけません。
 資源の大量消費による資源の枯渇や地球温暖化問題、オゾン層の破壊といった環境問題、先進国と発展途上国との経済格差の拡大や遺伝子操作による生命への倫理課題などなど。
 つまり、科学を駆使する私たち人間に、科学を人々の幸せのために正しく用いるだけの、勝れた思想と理念が必須なのです。
 科学が人類に幸福をもたらすか、それとも不幸をもたらすか、それを左右するのは、他ならぬ私たち人間であると言えます。
 御法主日如上人猊下は、
「世の中の多くの人達は、生活苦をはじめ様々な苦しみのなかにあって、初めはそこから脱却しようと思っても、いつの間にか慣れてしまって、苦しみから逃れようとしないのが現状であります。(中略)幸せな人生を歩むためには、信心はもちろん、生活面においても、こうした慣れや惰だ性せいから脱却しなければなりません。慣れや惰性から脱却するためには、一念奮起して信心を磨いていく以外に、解決の方法はありません」(大白法 八三九号)
と御指南されています。
 表題のように、「宗教の世界は、科学的根拠や証明があいまい」と思うのは、まさに科学の範囲と限界が判らない証左といえます。
 私たちは正しい宗教に基づき、清浄な生命を根本とし、科学はもちろんのこと、教育や政治、産業などあらゆる世間の営みに努力情進してまいりましょう。

RSS 宝日記

  • 春季総登山 2024年3月25日
    24日は春季総登山にて総本山に参詣致しました。御法主上人猊下ご健勝にて総会並びに御開扉にご出仕されていました。 […]
    kirimoto3

RSS 掲示板

  • お見舞い 2024年1月9日
    震災並びに航空機事故のお見舞いを申し上げます。

管理人

和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
お問い合わせは、ホームページのメールフォームから
電話でも受け付けております。
携帯090-3656-1453

317621
Users Today : 1162
Users Yesterday : 775
This Month : 28162
Who's Online : 20
Your IP Address : 3.81.30.41
Server Time : 2024-03-28