家相・墓相について知りたい

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 ここでいう家相・墓相は家や墓の位置・方角・構造などから、其の吉凶や住む人の幸・不幸を占うという意味であろうと思いますが、その因果関係や科学的根拠はまったくありません。まして今日のように住宅事情が思うようにならない状況下で、台所はどの方角に作ってはいけないとか、トイレはどの位置、玄関は何向きといったところで、それらの条件をすべて満たすことなど不可能なことです。
 たとえば、南側に道路のある土地に、北向きの玄関の家をつくるようにいわれても、とうていできないことです。むしろこのような現状を無視した考えで家相・墓相をとやかくいうこと自体がおかしなことなのです。
 たしかに新しい家を建てる場合、その地形や方角、通気性など、それぞれの生活用途に応じた構造を考えなくてはなりません。しかしこれは設計上当然のことであって、あらためて家相をもちだすまでもありません。
 世の中には、占い師が凶相と判断する家や墓地を持った人は、大ぜいいると思いますが、その人たちすべてが不幸になったという話はいまだかつて聞いたことはありません。それよりも占いの言葉を信じたために、かえって不幸な毎日を送る場合のほうが多いのです。このような迷信は知る必要もなければ気にする必要もないのです。
 仏法には「依正不二」ということが説かれています。これは簡単にいうと、正報(中心)となる人間と、それをとり囲み、正報によって影響される依報(環境世界)とが一体だということです。これは正報たる人間があくまでも中心になるということですから、いかに立派な御殿のような家でも、中に住む人が掃除がきらいならば汚れた家になるでしょうし、方角が悪いといわれる家でも福徳のある人が住むならば家も安泰となり、正法を持つ人が住む家ならば信心によって常寂光土の家ともなるわけです。
 これについて日蓮大聖人は、
「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」
(一生成仏抄・新編四六)
と仰せられています。所詮家や墓などは正報たる私たちの心や人格がそのまま反映する依報の一分なのです。
 私たちが福徳を身に備え、正法をしっかり護持し、精進するとき、はじめて依正ともに成仏の境界に至るのです。

【折伏実践のために】

家相や墓相などの占いに頼るのはやめよう
 私たちは、ある人から家相、墓相が悪いから、あなたの家にはいいことがない、と言われたら、それに対しての正しい知識がなければ、そうであるのかと思いがちです。この時大事なことは、家相、墓相が、その地形や方角、また生活の用途に応じ、妙法の信仰によって照らされれたよき形態であるか否かということから判断すべきであり、むやみに占いなどを頼り、信じてはなりません。
 特に、仏教の正しい教えでは、外面に起こった幸、不幸の原因は、内面なるその人の心の在り方に影響していると説かれています。大事なことは、内なる心の在あり方にこそあるのです。
 では仮に、占い師や間違った人の言葉を信じたらどうなるのでしょうか。それは、不幸を招く原因となることがあると知らなければなりません。
 それは、御本尊の信仰から離れ、占いの言葉、相手の言葉を信じてしまうことで、不安な生活を送るようになるからです。その時は、問題となることが解決していく状況であったとしても、次に何かよくないことが起こると、さらに占い師の言葉に頼って、巧みな言葉に騙され、そのいいなりの人生に代わっていくことになるのです。
 大聖人は、『聖愚問答抄』に、
「仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず、(中略)未だ仏法の是非を知らず、因果の道理をも弁へず。(中略)妙楽大師は『感かん応のう斯くの若ごときも猶理に称かなはず』とて、いまだ仏法をばし知らずと破し給ふ」(御書 三九三㌻)
「是これ一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏るべし畏るべし」(同 三六六㌻)
と仰せです。
 仏法の邪正を弁わきまえずに、いたずらに通力などに任せ、家相、墓相を持ち出す人は、真の因果の道理を知らない悪師であると断だん破ぱされているのです。
 また、そのような占いなどに頼って、たとえ家を建て、商売をし、一分の功徳や利益があったとしても、『諌暁八幡抄』に、
「又一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。(中略)法に験しるしの有る様なりとも、終ついには其の身も檀那も安穏なるべからず」(同 一五三一㌻)
と仰せのように、間違った教えを本として現われた一時的な利益は、幸せになるというよりは、むしろ慈悲魔の用はたらきであると言われています。それは麻薬による一時的な快楽、麻ま痺ひのようなもので、邪師の言葉の虜とりことなってしまい、やがては心身共に蝕むしばまれていくことになるのと一緒です。
 『唱法華題目抄』の、
「但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」(同 二三三㌻)
との御教示を心肝に染めましょう。
 
 仏教で説かれる依正不二の原理を教えてあげよう
 仏教では私たちと環境の関係を、正報と依報という言葉で説かれています。そして、この二つが一体不二の関係にあると示され、これを依正不二というのです。
 大聖人は、『瑞相御書』に、
「夫十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし」(同 九一八㌻)
と仰せられています。
 大切なことは、環境世界の一分である家相、墓相に頼って、自身の幸、不幸を決めるのではなく、「依報は影」「正報は体」と示されるように、正報である私たち自身が主体となって、周りの環境世界を変えていかなければならないということです。では、私たち自身を変えるにはどのようにしたらよいのでしょう。『諸法実相抄』に、
「下しも地獄より上かみ仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり。依報あるならば必ず正報住すべし。釈に云はく『依報正報常に妙経を宣ぶ』等云云」(同 六六四㌻)
と、十界の依正の当体は、本来、妙法蓮華経であることを示されています。
 これは、宇宙法界のありとあらゆるすべてのものは、依報正報共に妙法蓮華経の当体であり、正報である私たちが、妙法蓮華経の法を信じることによって、仏の命を現わしていくことができ、その時初めて依正不二の原理から、環境も仏となっていくことができるということです。
 大聖人は末法の一切衆生救済のために、南無妙法蓮華経の本門戒壇の大御本尊を顕わされ、私たちがこの御本尊を信じて、真剣に信心に励むとき、成仏の境界を得ることができ、さらには、私たちの住む環境国土も、仏国土としての姿を現わしていくことができることを教えられています。
 例えば、家庭などの小さな世界が荒れていたとしても、そこでしっかりと題目を唱えていくならば、そこに小さな仏国土ができ、幸せで立派な家庭が築かれていくということで、これが依正不二の原理なのです。
 大聖人は、『南条殿御返事』に、
「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり」(同 一五六九㌻)
と、この御本尊が正しい故に、それを信ずる人は貴い人、すなわち仏となり、その貴い人が住む故に、その住所も尊い場所、すなわち仏国土となると仰せです。私たちは、まず主体である自分自身を変え、それによって環境を整え、真の幸せを確立する姿を現わしていかなければなりません。
 御法主日如上人猊下は、
「正報たる我ら衆生が一切の謗法を捨てて、末法の正法たる三大秘法の随一、本門の本尊に帰依すれば、その不可思議広大無辺なる妙法の力りき用ゆうによって、我ら衆生一人ひとりの生命が浄化され、それが個から全体へ、点から面へ、さらに衆生世間に及び、社会を浄化し、やがて依報たる国土世間全体を変革し、仏国土と化していくのであります」(大白法 七八三号)
と御教示されています。
 私たちは、今こそ、荒乱し、混沌とした世の中を仏国土とすべく、一人でも多くの人たちが、不幸の根源である邪義邪宗の謗法を捨てて、本門戒壇の大御本尊に帰依できるよう、全魂をこめて折伏を行じてまいりましょう。

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