信仰はもうこりごりだ

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 現在、日本には二十二万以上の宗教団体があります。
その中には、古い歴史と伝統をもつ宗教から、最近生まれた宗教まで、多種多様です。そして、歴史を誇る宗教は、その伝統と古めかしい教義を説き、また各種の新興宗教は、それぞれの人の耳目を惑わすような、小さな通力や利益を説いて、一人でも多くの人を引きつけようと懸命です。
「信仰はもうこりごりだ」という人は、これらの宗教に一度ならず足を踏み入れ、そのつど、願いも叶わずむなしい思いを味わった人であろうと思います。
宗教は人の心と生活の全体に影響を持つものですから、一歩まちがえて邪教にのめり込んだら、どんなに立派な志を立てても、その結果は逆になってしまうのです。
しかも、邪な宗教に一度落ち込んだら、なかなかはい上がることができません。なによりも恐ろしいことは、悲惨なその姿に、本人自身がいまだに何も気付かず、不幸だとも思っていないことです。
このように、個人の理性をマヒさせるのが、邪教のもっとも恐ろしいところなのです。
今も非常に多くの人々が、その麻薬のような利益に執着して、抜けられないでいるのですが、なんとかしてそこから抜け出た人が、二度と宗教には足を踏み入れたくないと思うのは、当然でしょう。
しかし、だからといって、真実の宗教も邪な宗教も、十把一からげにして、すべてを否定することは、あまりにも軽率に過ぎます。
それは、あたかも一部の警察官の不祥事をもってすべての警察官がそうだと決めつけたり、何人かの悪徳医者がいたからといって、それですべての医者を悪徳呼ばわりし、医者を拒否する愚に似ています。
日蓮大聖人は、
「人路をつくる、路に迷ふ者あり、作る者の罪となるべしや」
(撰時抄・新編八三五)
と仰せられています。過去にあなたが邪な宗教にとらわれ、欺むかれてきた原因は、あなたに正法正義を選択する力がなかったからなのです。ですから邪教に惑わされた自らの不明を顧みて、真実の宗教と邪教とを識別する方途を知る必要があります。
大聖人は、宗教の正邪浅深を知る物差として、
「法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」
(唱法華題目抄・新編二三三)
と教えられています。
つまり、仏法の正邪は、耳目を惑わすような通力によって決めてはならない。あくまでも、人々を救済できる道理と働きと力を教え授ける法門によって決めなさい、と説かれています。
さらに大聖人は、
「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事・新編八七四)
と説かれています。
すなわち、正しい仏法を判定するためには、正しい救済の道理と、明確な仏の文証と、実際の功徳の現証に裏付けられていなければならないと説かれています。
この三証(文証・理証・現証)によって裏付けられ、いかなる時代の人々の理性と常識にも充分対応し、真実に人を救う力のある宗教が、日蓮正宗として現実に存在するのですから、「もうこりごりだ」などと言って逃げていては、ほんとうの幸せをつかむことはできません。

【折伏実践のために】

なぜ信仰を求めるのか
私たちはなぜ信仰を求めるのでしょうか。現実の生活を振り返って見ますと、仕事上の問題、人間関係の悩み、健康の不安、家庭不和、将来への心配等々、誰もがこれらの悩みや不安を抱えて苦しんでいます。そのような人生における様々な苦しみや悩みを解決して幸福になろうとするために信仰を求めるのです。それではこうした苦悩の原因はどこにあるのでしょうか。
仏法では自分自身の過去からの業によると説かれています。業とは人間の心や言葉や体にわたるすべての行為のことです。そして、その行為の結果には必ず原因があるという「因果」の理ことわりが説かれています。
もちろん不幸の原因はその邪悪で危険な宗教の害毒によるものですが、人生に害を及ぼすような宗教を選んでしまった本人自身にも原因があるのです。まずこの因果の事実を自覚しなければなりません。

正しい信仰は私たちの命を浄化する
邪教に近づいてだまされた苦い経験をくり返すたびに、人間の心に潜ひそむ不信や疑いが増幅していくのです。そうした汚れた心で生活していけば、やがて人間関係にも疑心暗鬼になってしまい、最後は自分をも信じることができなくなり、暗い不幸な人生を送ることになります。
しかし正しい信仰は私たちの命を浄化します。信仰とは、純真な心で正しい仏法僧の三宝を信頼し尊敬することですが、その信仰によって六根が清浄となるのです。六根清浄とは、見る聞くなどの五感と意識が清らかになり人格が向上することです。
また信仰心それ自体はまことに尊いものです。ただし何を対象として信仰するかで幸不幸が決まるのです。
日蓮大聖人は『立正安国論』に、
「何ぞ同じく信心の力を以て妄みだりに邪義の詞ことばを宗あがめんや」(御書 二四九㌻)
と、同じく信心するなら邪よこしまな宗教を信じてはいけないと仰せです。
正しい信仰には正しい対象が必要だということです。特に仏教では、仏法僧の三宝に対する信仰が大切であると説いています。なぜならば、ひとえに仏法僧への信頼があればこそ、純真な信仰心が生ずるからです。信仰の心は怒り、憎しみ、嫉ねたみ、疑いといった悪い感情を清浄にします。清浄な心になるからこそ仏性(仏の本性)という力強い、清浄な命が顕れてくるのです。
そこで次に信仰の対象となる「本尊」について述べましょう。

仏性を顕すためには正しい御本尊の縁が大事
衆生の仏性を顕すためには、正しい御本尊の縁に触れていくことが何よりも大切です。
御法主日如上人猊下は、
「御本尊様の縁はとても大切なのです。御本尊様の縁によって、すべての人が持っている仏性、南無妙法蓮華経が顕れてくるのでありますから、常にお題目を唱え、大御本尊様の縁に触れて行動していくことが大切なのです」(大白法 七九八号)
と御教示くだされています。
ここで重要なことは、私たちは幸福になれる可能性として仏性を持っているのですが、自分一人の力では仏性という宝物を引き出すことができないということです。
すなわち私たちの中に仏性という宝物(因)があるとしましても、その宝物を引き出すためには正しい御本尊(縁)がなければ、仏性を顕すことはできません。宝物があっても使わなければ宝の持ち腐れになるように、仏性が具そなわっているというだけでは幸福にはなれないのであります。
正しい御本尊とは、過去から現在、未来に向けて、またいかなる状況下にあっても信頼できる仏法僧の三宝が具わった御本尊なのです。その正しい御本尊によってこそ私たちの正しい信仰が確立されるのです。
以上述べてきましたが、宗教に対する正邪・善悪の判断は自分の物差ものさしではなく、本文にあるように大聖人が示された三証(文証・理証・現証)という物差で判断すべきです。
また自分の無知で選んでしまった宗教によって、信仰に対する拒否反応が生じていることに気がつき、改めて正しい本尊と信仰を求めることが大切であります。
そして邪悪な対象(本尊)に縁することによって自分の命に不信や疑惑が刻み込まれていき、それが人生の災難や不幸として現れてくるという謗法の事実を教えてあげましょう。
私たちは最高最善の大御本尊に縁して幸福な生活を送っております。このことに深く報恩感謝申し上げ、御命題達成に向かって力強く唱題・折伏を実践してまいりましょう。

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管理人

和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
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