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宗教は狂信、盲信のすすめではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
ここでいう「狂信」とは、理性を失い我を忘れて狂ったように信ずることであり、「盲信」とは、ひとつの信仰に埋没し、わけもわからずむやみに信ずることです。
 この狂信・盲信について三つの点から考えてみましょう。
 まずはじめに数多い宗教、信仰のなかには明らかに教義として狂信・盲信をすすめているものがあります。たとえば霊媒信仰や修験道、あるいは踊る宗教などは忘我の境地に至ることが救いであり、理想であると説いています。また、キリスト教やイスラム教のなかには自宗に執着するあまり、教義の正邪ではなく、暴力やテロに訴える場合もあり、これも狂信のひとつといえましょう。
 さらに念仏宗などは「他の教典はすべて捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と、他の教典を読むことを禁じ、禅宗なども不立文字・只管打坐と称して文字による教義教理を否定し、他宗の善悪を知ることさえ、きらいます。
 また、密教やキリスト教のなかには、社会との交渉を断って、山奥や閉鎖集団の中で生きることを至上の目的とするものもあります。
 このように、他の宗派や社会と隔絶することを説く宗教を信ずるならば、他の宗教と比較することもできず、独善的な信仰となります。
 日蓮大聖人は、
「迷妄の法に著するが故に本心を失ふなり」(御講聞書・新編一八五八)
と説かれ、誤った教えによって本心たる理性が失われ、狂信になると教えています。
 また、
「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで対治を加へよ」(立正安国論・新編二四八)
と仰せられ、社会の平和を実現させるためには、正法と邪法とをよくよく糾明して対応救治しなければならないと説かれています。
 第二には、信仰修行の上での狂信・盲信についていえば、日蓮正宗の信仰修行は理性を失う狂信でもなく、わけもなく信ずる盲信でもありません。
 大聖人は、
「行学の二道をはげみ候べし。行学絶へなば仏法はあるべからず」
(諸法実相抄・新編六六八)
と、修行とともに教学、すなわち教義の研鑚が大切であると説かれています。
 また、
「酔とは不信なり、覚とは信なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る時無明の酒醒めたり」(御義口伝・新編一七四七)
と仰せられ、真実の正法を信じ唱題する時、無明という迷いの霧が晴れて真理に目覚めるのであると教示されています。
 第三には、現実の例証をもっていえば、大聖人は、
「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か」(四恩抄・新編二六七)
と、信仰者は人間の道として父母・衆生・国王、そして三宝の四つの大恩を常に感じ、報いるように教えられています。又、職場での心得として、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(檀越某御返事・新編一二二〇)
と諭されています。このように常識をもち、社会人としての勤めに励むことが信仰者の道であると教えています。
 日蓮大聖人の願いとするところは、正しい仏法によって個人も社会もともに健全に発展し幸福境涯を築くことであり、日蓮正宗を信仰する者は邪法に迷う人々を目覚めさせるために正邪を説き、自らの姿をもって信仰の尊さを示しているのです。
 しかも正法を信ずるならば仏力・法力によって、おのずと円満な人格と福徳が備わり、社会人としても多くの人々の信頼と尊敬を受けていることはまぎれもない事実なのです。
 もしあなたが、信仰者の真剣な礼拝唱題の姿をとらえて、それを狂信だ盲信だと非難するならばそれは妄断であり、誤りです。なぜならそれはあたかも、職人が一心不乱に仕事に打ち込み、運動会で子供が一所懸命に走っているところだけをとらえて、「気違いだ」「狂っている」と、はやしたてているようなものだからです。

【折伏実践のために】

仏法でいう「信」とは
 正しい仏法には、狂信・盲信といった偏へん狭きょうな信ではなく、正しい「信」が説かれているのです。
 日蓮大聖人様は、
「夫それ仏道に入いる根本は信をもて本とす」(御書 三五三㌻)
と、仏の道に入るためには「信」(信ずること)が重要であると仰せです。
 仏法を信じて仏の道を生きていく者は、仏様と同じような幸福境界で生きることができます。人間の心というのは、様々な悩みや苦しみに汚されていて、なかなかよい行動がとれないのですが、「信」はよりよい人生を構築するための自信や確信となります。
 仏法によって「信」が心の中に生じたとき、人間の迷いによる苦悩が静まり、明るく活発に動けるようになります。故に仏法では、「信」とは善なる用はたらきであると説いています。
 しかし人間にとって、信じるという行為が常に正しいとは限りません。人間は欲や怒り、無知といった三毒の心に縛しばられているため「信」が濁にごり、愚かな行為で不幸な結果をもたらしているのです。したがって自分の人生が三毒による悪行為で不幸なのか、それとも正しい「信」による善行為によって幸福になることをめざしているのかを判断する必要があります。
 
 三証に裏付けられた「信」
 世の中の宗教には、衆生を惑まどわし、狂信・盲信を勧めているものがあります。こうした誤ったもの、間違ったものを信じることは、本来の「信」とはなりません。
 仏法で説かれる正しい「信」を培つちかうためには、宗教の正邪をしっかりと見極めていかなくてはいけません。
 大聖人様は、宗教の正邪を判断するための判定基準として「三さん証しょう」を説かれています。三証とは、文証(証文)・理証(道理)・現証の三つを言います。その宗教の教えが仏説に適かなったものか、普遍的な正しい道理に基づいているか、現実に功徳が顕われるかどうか、この三つを判定することです。
 この三証によって一切の宗教の正邪を判定するなば、大聖人様の教えのみが、最高の本尊と教義を有し、真実の功徳を実証できる正しい宗教だということが判ります。
 また、宗教において大事なことは、何を信ずるか、何を本尊として信仰するか、ということです。本尊とは、信仰者が帰依し、礼拝し、供養し、自らの生命を委ゆだねる対境を言います。信仰の根本となる本尊が、もし誤った偏狭的なものであれば、その本尊を信仰する者は狂信的、あるいは盲目的な境界となり、不幸な人生をたどることになります。
 信仰によって幸せになるためには、最も優れた正しい御本尊を信仰の対境として選択することが重要なのです。
 
 三宝への「信」が大事
 仏法の「信」で特に大事なのは、仏法僧の三さん宝ぽうへの信仰です。「仏」とは真実の法を自ら悟られ、一切衆生を救済される仏法の教主です。「法」とは真実の法の当体そのものと、それを悟った仏が慈悲に基づいて世に説かれた教法のことです。さらに「僧」とはその仏法を体得され、後世に正しく護り伝えていく方を言います。この三つはいずれも、衆生を救い、世の中を清浄に導く最高の宝であることから「三宝」と言うのです。
 仏道を歩み幸せになるためには、この三宝への「信」が不可欠です。三宝に対する「信」は、信仰者の心を清浄にします。心が明るく清らかになるのは、信じ奉たてまつる「三宝」が清浄だからです。
 大聖人様は、
「信心の水すまば、利生の月必ず応おうを垂たれ守護し給ふべし」(同 四六四㌻)
と御教示されています。
 すなわち信心(三宝への信)が清らかで澄んでいけば、三宝の利益は必ず衆生の願いに応じて顕われ、いつ、いかなる時も守護されていくのです。
 私共は宗教における「信」について正しく理解し、信仰者が信じる誤った本尊や教えによって狂信・盲信が起こり不幸になるということを指摘して、一層折伏に励んでまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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