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現在は信仰するほどの悩みはない、いまの生活で満足だ

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
「信仰するほどの悩みはない」という言葉は、言い換えると「悩みのない人は信仰の必要がない」ということであり、信仰を正しく理解していないようです。
 仏さまがこの世に出られた目的は、仏知見すなわちいかなるものにも壊れることのない清浄で自在の境地と、深く正しい智慧を、衆生に対して開き示し、悟り入らしめるためであると法華経に説かれています。
 そして法華経宝塔品には、
「此の経を読み持たんは是れ真の仏子 淳善の地に住するなり」(法華経三五五)
と説かれ、正しい仏法に帰依する者は真実の仏の子であり、清浄で安穏な境地に住することができると教えています。
 日蓮大聖人も、
「法華経は現世安隠・後生善処の御経なり」(弥源太殿御返事・新編七二三)
と仰せられているように、安穏な境地とは現在ばかりでなく、未来にわたるものでなければなりません。楽しいはずの家族旅行が一瞬にして悲惨な事故にあったり、順調に出世コースを歩んできた人が一時の迷いから人生の破滅を招いたりすることはしばしば耳にすることです。いまが幸せだからそれでよいという人は、よほど自分だけの世界に閉じ込っているか、直面している問題や障壁を認識できない人といわざるをえません。
 私たちの周囲を見ても、世界では毎年何百万人もの戦争による死傷者が出ており、私たちが戦乱の渦中に巻き込まれないという保障はどこにもありません。また、家族や親戚の悩みはまったくないのでしょうか。子供の教育問題や親または自分の老後の問題などを考えても、「今の生活で満足だ」とのんびりしているわけにはいかないと思います。
 大聖人は、
「賢人は安きに居て危ふきを欲ひ、佞人は危ふきに居て安きを欲ふ」
(富木殿御書・新編一一六八)
と仰せられ、賢人は安穏な時でも常に危険に心を砕いているが、考えが浅くへつらうことばかり考えている人は、危険な状態になっても安逸をむさぼろうとするだけであると説かれています。
 今が幸せだということは、譬えていえば平坦な舗装道路をなんの苦労もなく歩いているようなものです。しかし長い人生には険しい登り坂もあれば泥沼の道もあります。その時にはより強い体力と精神力、そして適正な智慧がなければなりません。難所にきてから「自分は平坦な道しか歩いたことがない」という人はむしろ不幸な人というべきです。どんな険難悪路に遭遇しても、それを楽しみながら悠々と乗り越えてゆく力を持つ人こそ真に幸せな人というべきでしょう。
 強い生命力と深く正しい智慧は、真実の仏法に帰依して信心修行を積まなければ決して開発されるものではありません。
 どうか目先の世界や自己満足に閉じこもることなく、一日も早く正しい仏法を信じ、真に賢い人間となり、幸福な人生を築いて下さい。

【折伏実践のために】

正しい信仰の意義
 私たちが折伏をするとき、相手から「今は信仰するほどの悩みがない」という言葉を聞くことがよくあります。
 こうした発言の裏には、相手が信仰についての理解に乏とぼしい、人生における根本的な苦悩を自覚していない、あるいは初めから信仰を断ことわりたい、といった理由があるのでしょう。
 また、「今の生活で満足だ」という心情も一面は認めてもいいのですが、自分だけの満足感に浸ひたっているだけでいいのでしょうか。
 人は誰しも一時的な満足を得ても、自分の将来への不安や、家族の悩みなどを抱えていたり、いつ遭遇するとも限らない災難などにも無関心ではいられないはずです。
 日蓮大聖人は、
「人界に生を受くるもの誰か無常を免まぬかれん」(御書 一四五六㌻)
と仰せです。人間としてこの世に生を受けた者は、無常を免れることはできず、必ず体の衰えや死を迎えます。
 無常とは、物質も心も瞬間的に変化していくことです。私たちは生まれ落ちた瞬間から、絶え間ない変化(無常)の中で老いていく存在なのです。
 しかし人間は、この無常の姿を理解していません。特に「生死」の問題に対してどう向き合うべきか、このことを明確に教えているのが正しい信仰なのです。
 
 人生における根本苦
 仏法では「生死不二」ということが説かれています。この意味は生と死が別々のものではなく本来、一体不二であるという真理のことです。
 ところが世間の人は、死に対して忌いみ嫌きらい、その一方で生に執着して幸福を得ようとしています。それ故に生死が一体であるという真理を受け入れにくいのです。
 仏法では「生老病死」(四苦)の問題を根本的に解決しなければ、真の満足も、絶対の幸福もあり得ないと説いています。
 人間はこの世に生まれた以上、老い、病み、やがては肉体の死を迎える存在です。この四苦とは客観的な事実ですが、私たちは、いつまでも若く健康でありたい、死にたくないという強い欲望があります。その執着のため、現実の四苦が、自分の思い通りにならない苦悩として実感されていくのです。
 
 幸不幸は「業」によって決まる
 一般の人は財産や地位、名声などを得ることで満足した人生が送れると考えています。これらの満足感を否定するものではありませんが、これらはいずれも、永続し得ない、一時的で不安定なものなのです。
 たとえ財産や地位、名声を得たとしても、これらは因縁(状況)の変化によって、いつ失われるとも判りません。また老いや病気によって不自由な身になれば、今ある満足が同じように続くとは限らないのです。
 仏典の雑阿含経に「四人の妻」の話があります。
 四人の妻を持つ男が、遠い国に行くことになりました。
 第一、第二夫人は同行を拒否します。
 第三夫人は国境までは見送ると言います。しかし、存在すら忘れていた第四夫人が同行を承諾すると言います。
 遠い国とは死後の世界のことで、第一夫人は肉体、第二夫人は財産(あるいは地位や名声)、第三夫人は妻を含む家族などを表わします。
 それでは、第四夫人とは何に譬たとえているのでしょうか。その答えは、自分が一生の間に作って来た「業」(行為)のことです。
 「業」とは、思いや言葉、体にかかわる善悪の行為と、その行為が未来に及ぼす潜在的な影響力(業力)のことです。生前、存在すら忘れていた自分の業だけは、死んだ後々まで付いていくのです。
 人生の幸不幸を決めるのは善悪の業である、ということを仏法で学ぶことです。
 
 真の「満足」とは成仏
 大聖人は、
「満足とは成仏と云ふ事なり」(同 一七三二㌻)
と仰せです。仏は妙法を説いて一切衆生成仏の願いを満足させました。
 正しい信仰によって得られる最大の功徳は、人間の苦悩(四苦)を根本的に解決し、「成仏」という揺るぎない真の満足を得ることです。
 この成仏の功徳(満足)は、正しい御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることによって自身の中に現われ、苦悩に覆おおわれた現実生活を変えていく力があります。
 大聖人の仏法は、過去・現在・未来に亘わたる三世の生命を明かし、その上で、苦悩の原因が謗法(誤った思想・宗教)の害毒にあることを指摘すると共に、限りある一生を幸福に生きる道を説いています。
 正しい信仰によらない一時的な幸福、利己的な満足感ははかないものです。正しい仏法を信仰し、三世に通じる成仏への道を歩むことが大事なのです。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
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