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南無妙法蓮華経と唱えるならば、どれもおなじではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈すれば妙法蓮華経すなわち法華経に帰依(南無)するという意味です。
 日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。
 しかし日蓮大聖人は、
「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法禀承事・新編一五九四)
と仰せられ、大聖人が建長五年四月二十八日に唱え出された南無妙法蓮華経は、いまだ誰も唱えなかったものであると説かれています。
 さらに大聖人は、
「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」
(経王殿御返事・新編六八五)
とも、
「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」
(観心本尊抄・新編六五六)
とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは異なったものであると示されています。
 では南無妙法蓮華経のほんとうの意味はなにかというと、
 「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と 云ふなり」(御義口伝・新編一七六五)
と説かれています。すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう法華経の行者とは日蓮大聖人にほかなりません。これについて、さらに、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝・新編一七七三)
と仰せられており、法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。
 したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者日蓮大聖人の当体なのです。
 大聖人は、
「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄・新編一二七五)
と私たちに本尊の大切さを教えられています。
 いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派のように、釈尊像を拝んだり、竜神や大黒天あるいは稲荷に向かったり、さらには霊友会や立正佼成会のように死者の戒名に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人の教えに背く悪業を作ることになります。
 人でも自分と違った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼にあたると同じ理屈です。
 せっかく日蓮大聖人を崇め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人の御真意に叶った正しい御本尊に向かって唱題すべきです。

折伏実践の手引き

釈尊の説いた法華経の題目
表題の疑難のように皆さんも折伏していると
「うちも『南無妙法蓮華経ですからいっしょですね』
というようなことを聞くことはないでしょうか。
では、日蓮正宗の題目と、日蓮門下で異流儀を立てる諸宗教団体¥の唱える題目と何が違うのでしょうか。
釈尊が説いた法華経の題目には、
  一、権実相対の題目
  二、本迹相対の題目
があり、これは広くは法華経一部八巻二十八品、括れぱ本迹二門となります。
 釈尊の説いた法華経は、脱益の化導において、在世の衆生を成仏させ、余残の者たちも滅後正像二千年に成仏し終えるものでした。
 一般の日蓮宗などで唱える題目はこの範疇であり、このため日蓮宗などで立てる本尊は釈尊を中心とする仏像となっています。
 また正法の信仰者を守護することを誓った毘沙門天、帝釈天、また鬼子母神を祀って本尊とし、これに対して「南無妙法蓮華経」と唱えていますが、法華経の教説から見て、これらは、とんでもない誤りです。

寿量品の文底の題目
もとより大聖人様の唱えられた「南無妙法蓮華経」の題目の本法は『顕仏未来記』に、      
 『仏記に順じて之を勘ふるに既に後五百歳の始めに相当たれり。仏法必ず東土の日本より出づべきなり」
  (御書 六七八ページ)
と、また『報恩抄』に、
 『日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし』(同 一〇三六ページ)
と仰せられるように、末法万年の衆生を救済せられる大白法であり、東土の日本より出現し、一閻浮提に流布せられる未曽有の独一本門の題目です。
  このことは『上野殿御返事』の、
  「今、末法に入りぬれぱ余経も法華経をかなし・但南無妙法蓮華経なるべし」(同 一ニー九ページ)
との仰せからも、釈尊の説いた法華経一部八巻二十八品の題目ではないことが判ります。
また『御講聞書』には、
  「所詮日蓮が意の云はく、法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり。(中略)上行菩薩に授与し玉ふ題目の外、法華経の極理は之無きなり云云」(同 一八五九ページ)
さらに『観心本尊抄』には、
  「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたまふ」(同 六五七ページ)
とあり、『開目抄』に、
  「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり」(同 五二六ページ)
等とあるように、一代聖教の中にはただ法華経、法華経の中にはただ本門寿量品、本門寿量品の中にはただ文底に秘し沈められた本因下種の大法である南無妙法蓮華経であることを仰せです。
 同じ題目だと思っても、ここに大きな勝劣浅深が存するのです。
 文底肝心の南無妙法蓮華経こそ本門戒壇大漫荼羅本尊であり。末法一切衆生を即身成仏に導く本因下種・本仏日蓮大聖人の御当体なのです。
  自行化他にわたる題目が肝要
 大聖人様は成仏の直道について『当体義抄』に、
  「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(同六九四ページ)
と仰せのように、末法の荒凡夫である私たち一切衆生は、本仏の当体である本門の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えることにより煩悩・業・苦の三道が法身・般若・解脱の三徳と転じて仏道を成ずるのです。
 さらに言えば、本文にあるように末法弘通の本門の題目は、自行のみならず化他・折伏にわたる題目なのです。
 御法主日如上人猊下は.
 「唱題の功徳を自行のみに止めず、化他行に活用していくことが肝要となるのであります。すなわち、唱題が唱題だけに止まらず、この唱題の功徳と歓喜をもって、折伏に打って出ることが大事なのであります。
 いつも申し上げておりますように、自行のみの題目は『理の題目』であります。理の題目は爾前権経の題目と同じであります。大聖人様の仏法においては『自行化他にわたる題目』が肝要なのであります」(大白法 七一一号)
と御指南されています。
 大聖人様は、釈尊在世や正像二千年の前代に未だ顕わされなかった寿量本因下種の妙法を、外用は法華経に予証された地涌上行菩薩として、内証は久遠元初即末法本因下種の凡夫即極の本仏として出現されました。そして、南無妙法蓮華経と唱え自行を成ずると共に、その人法体一の法体を本門戒壇の大御本尊として建立あそぱされたのです。
 故に私たちはこの御本尊を仏法の根幹として篤く信じ、地涌の菩薩の眷属としてこの妙法をあらゆる人に勧め、折伏していくことが大切なのです。

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