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仏教の法話は現実離れしたおとぎ話ではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 私たちは自分の幸不幸を目先の現実によって評価しがちですが、真実の幸福とは自己の生命に内在する仏の生命の涌現によって、現実の人生や生活の中にその力を発揮させることです。
 そのためには、仏が悟られた真実の教法に帰依し、仏の御意に叶った信心修行に邁進しなければなりません。
 しかし私たちにとって、仏が長い間修行されて悟られた法の内容や功徳力はもちろんのこと、人間生命の実体や成仏の境界などは、あまりにも深遠すぎてとうてい理解できるものではありません。
 だからといって、仏法は難解だからかかわりたくないと遠ざかるならば真の幸福も安心立命の人生も築くことはできません。ここに仏の化導のための手段が必要になるのです。
 釈尊は、
「吾成仏してより已来、種々の因縁、種々の譬喩をもって広く言教を演べ、無数の方便をもって衆生を引導して」(方便品第二・法華経八九)
と説いています。すなわち仏は自ら悟った甚深の法を、人々に説くに当って、さまざまな因縁(原因・助縁)、あるいは譬喩(たとえ)を説き、さらには多くの方便(手段)を用いて導くというのです。
 天台大師も、仏が譬喩を説くことについて、
「樹を動かして風を訓え扇を挙げて月を喩す」(御義口伝・新編一七三三)
と記しています。この意味は、風そのものを見ることはできないが、樹が揺らぐことによってその存在を知ることができ、天の月に気付かない人には、身近な扇を高くかざすことによって天月を気付かせることができるということです。これと同じように仏も衆生に対して、身近な言葉を用い、因縁や譬えなどさまざまな手段をもって正法を説き明かされているのです。
 あなたがもし、仏典の因縁や譬喩の部分だけをとり挙げて、「現実離れだ」「子供だましのお伽話だ」と非難するならば、それは仏の真意を知らない浅薄な言動といえましょう。
 仏典を開き、法話を聞くときは、表面の言葉だけにとらわれることなく、それによって示される仏の真意に留意し、耳を傾けるべきです。

【折伏実践のために】

人を導くための手段
 私たちは他ひ人とに何かを伝えようとするときには様々な工夫を凝こらし、相手が理解できるよう努力するものです。
 例えば家庭で子供に、躾しつけや教訓のために譬え話や方便を使うことがあります。あなたも幼い頃に「夜遅くまで起きているとお化けが出る」、「ご飯を残すと目がつぶれる」、「嘘をつくと閻えん魔ま様に舌を抜かれる」などと諭さとされたことがあるかも知れません。
 当然ながら、親は我が子を欺あざむこうとか、怖がらせようとしてこのような話をする訳ではなく、世間の道理を教え、社会で生活していくための規き範はんを身につけさせたいという、慈悲の思いが根底にあります。幼い子供の生活態度を改めさせるのに、「睡眠不足が体にもたらす悪影響」や「世界の食糧問題」などの難解なことを語っても詮せんなきこと。そこで、親は子供が理解できる言葉を使って教え導くのです。
 このことは、仏が種々の方法をもって衆生を教化することに通じています。法華経『方便品』に、
「諸仏世尊は、衆生をして仏ぶっ知ち見けんを開かしめ、仏知見を示し、仏知見を悟らしめ、仏知見の道どうに入らしめんと欲するが故に世に出現された(趣意)」(法華経 一〇二㌻)
と説かれるように、仏は一切衆生を成仏せしめるという一大目的のため、大慈悲心をもって数々の譬喩や方便を説き、人々を善導されるのです。我々が仏教の説話を聴聞するときは、仏様の御慈悲を肌に感じつつ、その御本意を十分に心得ておく必要があります。
 
 説話に含まれる深義
 仏教経典には『本ほん生しょう譚たん(仏の前世の物語)』と呼ばれる説話集があり、有名な雪せっ山せん童どう子じや、鷹たかに自らの肉を与えた尸し毘び王おうの物語もその一つです。また.釈尊が過去世において動物として生きていた頃、例えば未だ菩薩であった頃に兎うさぎとして生まれ変わった時の話などが多く説かれています。「不思議なおとぎ話」と感じるかも知れませんが、私たち法華経を信ずる者の視点からすれば、そこには深い意義の存することが判ります。
 日蓮大聖人は『一代聖教大意』に、
「爾前の経の人々は仏の九界の形を現ずるをば、但仏の不思議の神変と思ひ、仏の身に九界が本よりありて現ずるとは云はず」(御書 九八㌻)
と、仏が動物などに身を変ずるのは、仏界に九界が具そなわるという、十界互具の原理の故であると仰せられています。つまり、爾前経に仏の前身として説かれる様々な人物・境界はことごとく、法華真実の仏が衆生教化のため十界の姿を現じたということですが、法華経を知らない人々にはこの深義が判りません。あらゆる教法の上に仏様の御真意をくみ取り、真の慈悲を感ずることができるのは、随ずい自じ意いの教えである法華経を信ずる人のみであると言えましょう。
 
 「一眼の亀」について
 有名な譬えに「一いち眼げんの亀」の説話がありますが、大聖人様は『松野殿後家尼御前御返事』に、この譬え話について御指南をあそばされています。
「大海の底深くに、手足もヒレもなく、腹は鉄を焼いたように熱く、背中は雪山の如く冷たい一眼の亀があった。その亀は聖せい木ぼくである赤しゃく栴せん檀だんの浮き木に上り、その穴に腹を入れて冷やし、甲こう羅らを日の光で暖めたいと願っていた。しかしその亀は千年に一度しか海面に出られない上、ただでさえ稀まれである浮き木、それも栴檀の浮き木に値あうことはたいへん困難である。また運よく値えたとしても、亀の腹にちょうど合う穴がある浮き木などはさらに稀である。また、亀は一眼であるため浮き木が西に流れるのを東と見誤り、東に流れるのを西とみて、浮き木に近づこうと思ってもかえって遠ざかってしまう。このように無量無辺劫という長い時間をかけても、一眼の亀が浮き木の穴に値うことは難しい(趣意)」(同 一三五四㌻)
という内容です。釈尊はこの譬えをもって衆生が法華経に値うことの難しさを説かれました。
 大聖人様はさらに一歩立ち入り、たとえ法華経という浮き木に値うことができたとしても、唱え難き題目、南無妙法蓮華経の穴に値うことはさらに困難であると仰せられます。
 また大聖人様は、この譬え話における「大海」とは「生死(苦しみ)の大海」を指し、「亀が千年に一度海面に出る」ことは、三悪道に堕ちた人間が無量劫を経て再び人間に生まれ出られることを、「栴檀の浮き木に値い難い」のは、たとえ人間に生まれることができたとしても釈尊の出世には値い難いことを御教示されています。そして、亀に手足がないのは我々の身に善根がないことを表わし、腹が熱いのは我らの瞋いかりによる八熱地獄の苦しみ、甲羅が冷たいのは貪とん欲よくによる八寒地獄の苦しみに譬えられます。そして亀が浮き木の流れる方向を見誤るのは、我ら衆生が賢明なふりをして法の勝劣を見誤り、利益のない法に利益があると思い込み、人々の機根に合っていない法を、合っていると得意げに言いふらすことに譬えられているのです。
 この「一眼の亀」の話も上辺の内容だけに執とらわれてしまえば「現実離れしたおとぎ話」ですが、深い信心と正直な態度をもって聴聞すれば、正法に巡り合えたことの有り難さを実感できます。
 大聖人様は謗法の蔓まん延えんする鎌倉時代の日本において、法の勝劣を見極め、「大難四力度小難数知れず」と言われる法難に遭いながらも生涯にわたって弟子檀那の育成に尽力され、一切衆生救済のために本門戒壇の大御本尊を御建立あそばされました。
 御法主日如上人猊下は、
「末法の衆生は、この根源の大法たる妙法蓮華経の五字を受持信行して、初めて自らの幸せを築き、また世界中のすべての人々の幸せを実現することができるのであります」(大白法 七八七号)
と御指南あそばされています。
 私たちは正法に出合えたことの意義と有り難さを心に留め、日蓮正宗の三宝を信しん敬ぎょうする上に日々御僧侶の御法話に耳を傾け、御書や仏典を糧かてとして精進してまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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