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どんな宗教にもよい教えが説かれていると思うが

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 これについて二点から考えてみましょう。
 その第一は、教義の善し悪しとは何によって決められるかということであり、第二には宗教とは観念的な理論のみではなく、実践がともなうものであるということです。
 まず第一の教義の善し悪しですが、もし一般的な道徳や常識という見地に立てば、人殺しや盗みを奨励する宗教でないかぎり、よい教えを説いているようにみえます。
 しかし、宗教は個人の身体と精神を含む全人格が帰命し、よりどころとするものですから、高い教えと低い教え、部分的な教えと大局的な教えの相違は、信ずる人間性に対して敏感に影響します。したがってひとりの人間をより根本から蘇生させ本源的に救済するためには低級で部分的なものではなく、高度で大局的な教えに帰依しなければなりません。
 日蓮大聖人は、
「所詮成仏の大綱を法華に之を説き、其の余の網目は衆典に明かす。法華の為の網目なるが故に」(観心本尊得意抄・新編九一五)
と仰せられ、法華経という大綱があって、初めて法華経以前に説かれた諸々の教えが生かされると説いています。
 仏教以外のキリスト教やマホメット教、儒教、神道なども一見すると人倫の道が説かれており道徳的にはよい教えのようですが、人間の三世にわたる生命論や、人間が具有する十界三千の実相が説かれていませんし、これらを仏教とりわけ法華経と比べるとまったく低級な宗教であることがわかります。また、
「無量義とは一法より生ず」(無量義経・法華経一九)
ともいわれますように、唯一無二の大綱たる一法を信受するとき、種々の経経に説かれている功徳利益のすべてがはじめて生きてくるのです。
 この一法こそ仏法の上からいうところの真実の一法であり、もっとも正しい教えなのです。
 次に宗教には必ず実践がともないますから、理論的にはいかに立派な教えであっても、それが現実に生かされないものであれば、何の役にも立ちません。
 その理論的教義を現実に証明し民衆を救済する教主が出現するかしないかは、その宗教が真実か空想かという違いでもあります。教主がみずから出現し、正法正義を説いてそれを実践し証明したとき、はじめてその宗教は信憑性のある宗教といえるのです。
 たとえば新興宗教のなかにモラロジー(最高道徳)という宗教がありますが、その教義は〝釈迦・キリスト・孔子などの教えの中からそれぞれよいところだけを取り出して実践する〟というものです。しかし、同じ釈尊の教えの中でも、二百五十戒、五百戒という戒律の実践を説く教えもあれば六度の修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)もあり、以信得入すなわち信ずることが悟りに入ることであるとも説いています。このなかのどこをよい教えとして用いたり、反対に切り捨てたりするのでしょうか。
 これを靴にたとえれば、雨の時はゴムの長靴が最適であり、登山には登山靴、野球・テニス・サッカーなどにはそれぞれ目的にかなった靴があります。また海水浴の時にはだれでも、はだしになるわけです。
 これらをすべてがよいからといって、すべての靴のよいところと、はだしをいっしょに用いることなどはできるわけがありませんし、そんなことを言えば狂人と笑われるでしょう。
 このモラロジーという宗教が犯している誤りのひとつは、大綱と網目の相違、すなわち大局的・総合的な教義と部分的な善悪との判断がつけられず、無節操にどれでもよいと考えていることであり、もうひとつは生きた例証もなく、実践も不可能な空想論をかってに教義と称して信者に押しつけていることにあります。一見するとよい教えのように思われる宗教でも、よく検討するならば、低級宗教や、邪悪な宗教であると気がつくでしょう。

【折伏実践のために】

真実の一法とは三大秘法の御本尊
 宗教には、世界三大宗教と呼ばれる仏教・キリスト教・イスラム教をはじめ、原始宗教や民族宗教など多種多様の宗教があります。こうした宗教には、必ず本尊(信仰の対象とするもの)と教義(信仰の教えとなるもの)を立てますが、すべての宗教が人々を悩みや苦しみから救えるものではありません。幸せになるためには、正しい宗教を見極める必要があります。
 仏教でいえば、釈尊が何を目的とし、いつ、誰のために説かれた教えであるかを知らなければなりません。説かれた目的が違えば、どんなにその教えを信じても悩みや苦しみは、根本から解決することはできません。目的地と違った乗り物にいくら乗っていても正しい目的地には着くことができないように、正しい宗教を信じなければ、正しく救われることはできないからです。
 今、世の中には、様々な宗教があふれるほどあり、こうした中で、どの宗教が正しい教えなのか、私たちが独自で判断することはたいへん困難であります。
 釈尊は、
「唯ただ一いち乗じょうの法のみ有り、二無なく亦また三無し」(法華経 一一〇㌻)
と示され、真実最高の法(教え)はただ一つであるとし、その法は法華経であることを示されています。法華経は、「皆かい成じょう仏ぶつ道どうの教え」と言って、すべての人を救うことができる最高の教えです。法華経は、諸経の中で最も勝れた教えであり、すべての人が幸せになれる絶対的な幸福を説いています。
 そして真実の一法とは、この法華経に示される日蓮大聖人の説かれた三大秘法の御本尊です。
 
 信仰とは実践すること
 宗教はどれも同じではなく、その善し悪しは、その宗教を信仰し実践した結果の現証によって判断することができます。宗教とは体験・経験の世界であり、私たちの幸・不幸もすべて信仰の実践の中にあります。すなわち、正しい宗教とは、すべての人の悩み苦しみを解決し、絶対的な幸福をもたらし、生きる歓びが涌わいてくるものです。
 御法主日如上人猊下は、
「信心とはあくまでも理論や観念ではなく体験であり、実践であるということであります。この体験、実践をとおして初めて広大無辺なる御本尊の功徳を我々はいただくことができるのであります」(大白法 七二二号)
と仰せであります。私たちが幸せになるためには、ただ黙って座っているだけでは幸せになることはできません。仏様の広大無辺の功徳(仏力・法力)を得るためには、私たちの強い信ずる力とそれを実践していく力によって幸せになれるのです。
 
 今末法は折伏の時
 末法は、「権ごん実じつ雑ぞう乱らん」と言って、正しい教えである法華経を蔑ないがしろにし、間違った教え(邪義)が入り交じって世の中に蔓延はびこる時代です。そしてまた、末法の衆生は、無知無行の衆生と言って宗教には無知であり、いずれが真実の教え(法)であるか、全く判っていません。これによって、末法の世にはたくさんの間違った教えが蔓延り、正しい真実の宗教の存在を見えなくしています。
 これについて大聖人様は、『如説修行抄』に、
「今の時は権経即実経の敵と成る。一乗流布の代の時は権経有って敵と成る。まぎ紛らはしくば実経より之を責むべし」(御書 六七二㌻)
と示されています。
 真実最高の教えである法華経が世に弘まるときには、法華経以外の誤った教え(権経)が世の中に氾濫はんらんし、正しい宗教の存在を見えなくして、法華経流布を妨さまたげる敵となることを示されています。
 そしてさらに、末法の衆生は本末有善の衆生であり、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕だせん事疑ひ無し」(同 二三一㌻)
と示されるように、成仏し難い善なき衆生が大半であります。
 御法主日如上人猊下は、
「末法の衆生は自ら進んで法を求めてくるようなことはありません」(大白法 八○三号)
と仰せになり、今の時こそ、
「法華講員の一人ひとりが広布の最前線に参加し、勇猛果敢に折伏を行じていかなければならない」(同)
と御指南されています。
 末法正法流布のためには、折伏をもって邪宗教の邪義を打ち破っていかねばなりません。私たちの折伏の実践なくして真実の仏法を世に顕わすことはできないからです。今私たちは、末法の御本仏である宗祖大聖人様の御精神をしっかりと拝し、強い勇気と確信を持って、勇猛果敢に折伏に遇進してまいりましょう。

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