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宗教によらなくても、自分で幸福だと思えばよいのではないか

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
一般に、どのような境遇にあっても、人間の幸不幸は所詮その人の心の持ち方・考え方によって決定されるのだから、宗教に頼るよりも、心に〝自分は幸せだ〟と思うことが大切である、という考え方があります。 
 このような考え方は、一見もっとものようですが、現実的には人間本来の「心」を知らない理想論であり、これを実行するとなると危険がともないます。なぜかといいますと、私たちの心は時にふれ、折にふれて、ある時は喜び、ある時は悲しみ、怒り、そして安らぐというようにさまざまに変化します。その変化は心だけでなく、顔つきや態度に現われます。なぜ私たちの心がさまざまに変化するのかといいますと、周囲の環境世界(これを縁といいます)に触れることによって、私たちの生命(身心両面にわたる人間全体の働き)に、本来潜在的に具えている十界三千といわれるさまざまな働きの一部分が瞬間瞬間に反応するからなのです。
 私たちの内なる心と外界を結ぶ窓口が眼耳鼻舌身の五根です。外界の色彩や物質は眼根を通して心に伝えられます。音は耳根により、香りは鼻、味は舌、冷暖・柔剛などは身体の皮膚感覚によって心に伝達されます。これらの情報を受けた心(意根)は、これを識別して好悪・喜怒などの反応を生ずるわけです。
 人間は自分の心に適ったり満足した時に幸福を感じますし、反対にきらいなことが続いたり、不快なことが直接我が身にふりかかった時に不幸を感じます。これは人間として本能的なものであり、きわめて当然のことです。
 それを「どのような場合でも幸福を感じ続けよ」と心に強制することは、あたかも身に危険を感じても安全だと思えということと同じであり、黒いものを見て白いと思えということと同じです。このようなことは現実に、正常な人ができるわけがありません。「心」は目に見えませんが、肉体と同様に疲労や倦怠もあれば許容の限界もあるのです。もし身体を鍛えていない病人に、いきなり何十キロもある荷物を背負わせたとしたらどうでしょう。おそらく立つことはおろか、大けがをしてしまうでしょう。同じように心の鍛錬・修行を積んでいない人に対して、「どのような境遇にあっても、いかなる縁に接しても、自分は幸福だと思わなければいけない」と強要することは、極度の心理的重圧を加えることになり、ついには二重人格や精神分裂症などを引き起すことにもなりかねません。
 このような、人間生命の本質を知らない誤った幸福感は、一個人の主義・主張にとどまらず宗教の教義の中にも見られます。その一例を挙げますと、〟心によって病気が起るのだから、治ったと思えば病気が治る〝と説く「生長の家」や、〟汝の敵を愛せよ〝などと矛盾した美辞麗句を並べる「キリスト教」があります。
 これらは、宗教本来の利益によって現実に救済する力もなく、衆生を加護する力もなく、単に衆生に対して〟思いこみ〝を押しつけているだけの宗教といわざるをえません。
 これに対して真実の宗教とは、宇宙法界の現象と真理のすべてを達観した本仏によって説き示された教えであり、広大な功徳力を具えた本尊を信じ、修行を積むことによって、清浄にして不動の心(法身)を発揮し、深い智慧と慈愛にみちた人間性(般若)を開発し、人生を自由自在に遊楽(解脱)させる働きがあるのです。このことを日蓮大聖人は、
「法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じ云々」(当体義抄・新編六九四)
と仰せられています。
 真実の幸福とは、観念的な〝思いこみ〟や〝ひとりよがり〟出はなく、正しい本尊によって自己の内面から健全な生命を涌現させ、修行によって深い智慧と苦難を克服する心を養い、仏力・法力によって守護される安心立命の境界をいうのです。
 何物にもくずれない絶対的幸福、それは正しい宗教によってはじめて得られることをよくよく知るべきです。

5 信仰は意志の弱い人間のすることだ

 意志の強い人とは、ひとつの目的に向って、種々の障害があろうとも、それを乗り越えて行く努力ができる人のことをいい、目的に向うことは同じでも、途中で挫折してしまったり、またひとつのことに長続きしない、移り気な人が意志の弱い人といえると思います。
 しかし、目的の違いや環境の違いによって難易の度合いもありますから、いちがいに、あの人は意志の強い人、弱い人と決めつけるわけにはいきません。
 また、意志が強いと思っている人であっても、人の心というものは常に変化してゆくものです。周囲の環境の変化によって変ってゆくのが、人間の心なのです。
 したがって、その変りやすい自分の心を中心として、その心の変化のままに思い思いに行動してゆくならば、それは、ちょうど羅針盤のない船のように、どこへ行きつくのか見当もつきません。常に右往左往していなければなりません。
 日蓮大聖人は、
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(曽谷入道殿御返事・新編七九四)
と、自分の心をすべての依りどころの基盤とするのではなく、正しい教法を心の師として、弱い自分に打ち勝つべきであると教えています。
 なかには、何事に対しても消極的で、常に何かに頼っていこうとする人がたまたま宗教に救いを求める姿をとらえて、「信仰は意志の弱い人間のすることだ」という人もいるようです。
 しかし、たとえ意志が弱いといわれるような人であっても、真実の宗教である大聖人の教えによって種々の困難を克服していくならば、これほどすばらしい人間改革の道はありません。
 事実、意志の弱さや、病魔や、さまざまな宿業による困難を、妙法の信仰によって乗りこえた体験を持った人たちが、現在社会のあらゆる分野で活躍し、大聖人の仏法によって、大きくその境涯を開いています。
 このような現実社会の中で人材として蘇生していく姿こそ偉大な仏法の力を証明するものであり、信仰は意志の弱い人間がすることだときめつけるのは、とんでもない誤りです。

【折伏実践のために】

正しい宗教観と幸福観
 人間は誰もが自分の願い通りの人生を歩み、幸福になりたいと思っていますが、その幸福を求める方法や有り様については、精神面、物質面、あるいは物心両面にわたるなど様々な幸福論が説かれています。
 表題にある「自分で幸福だと思えばよい」という発言もよく耳にします。しかし現実の苦悩を前にして、はたして自分は幸福だと本当に思えるものでしょうか。このような発言は一種の観念論的な考え方ですが、精神的なものと物質的なものはお互い密接な関係にあるという仏法の色しき心しん不ふ二にの立場から言えば一面に偏かたよった浅い見方です。
 また「宗教によらなくても」という発言は、宗教に頼たよるよりも、自分の心で幸福だと思い込めば幸福になれると考えているようです。このように考え違いをしている人に対しては、正しい宗教観と幸福観における基本的なことを教えてあげることです。
 
 正しい生き方と苦悩克服法
 宗教には正せい邪じゃ・勝しょう劣れつ・浅せん深じんの違いがあります。正しい宗教とは、単に「何かにすがって生きる」というような浅い教えではありません。現実の苦悩を直視しそれを自分の中で真っ向から受け止めて乗り切っていける自分になれるか、その苦悩を克服して自分自身をさらに成長させていけるか、また自他の幸せのために生きていけるか、こうした生き方と克服法を教えてくれるのが正しい宗教なのです。
 大聖人様は、
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとな唱へゐ居させ給へ」(御書 九九一㌻)
と仰せです。苦しい不幸なことが起こったとしたならば、それを無理やりに幸福だと思い込むのではなく、その苦しみがたしかに苦しみであると受け止めることが大切です。
 そしてそれが法界本ほん有ぬの四し苦く八はっ苦くの苦しみであるか、あるいは自じ業ごう自じ得とく果かの苦しみであると正しく認識し、苦しい時も、楽しい時も、世間の苦楽は夢の中の苦楽と悟さとり、南無妙法蓮華経と唱える信仰によってのみ、日々の生活と人生の上に、真実の遊楽の境きょう界がいを開くことができるのです。そしてまた、人生におけるどんなに苦しい状況も幸福な出来事も、それを元に将来に向けて「新しい生きる力に変えていこう」とするのが仏法の生き方なのです。
 
 幸不幸は因果の法則による
 仏法を学ばなければ、人間はなぜ幸福になるのか、なぜ不幸になるのかという本当の理由は判りません。
 仏法では因果の法則によって人生が成り立っていると説いています。もし幸福になるとすれば、それは過去に善ぜん業ごう(善の行為)を積んで正しいよいことをした結果なのです。逆に不幸になるとすれば、それは過去に悪あく業ごうを積んできたからに他なりません。何もよいことをしないのに幸福な結果が出ることはあり得ません。ですから因果の法則のうえから言えば、不幸と思える物事に対し、観念的に幸福だと思うだけでは根本的な解決にはならないのです。
 
 相対的幸福と絶対的幸福
 幸福観には二つの立場があります。世の中の人々は社会的地位や名誉、財産等といった相対的な幸福を求めています。これらの世間的な幸福をすべて否定するわけではありませんが、世の中のすべては因縁によって変化したり消滅したりするのですから、これらの相対的幸福は永続しないし絶対的なものではないのです。
 これに対し絶対的幸福とは「成仏」のことです。成仏とは正しい宗教によって得られるものであり、正しい御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え力強い生命力を養うことによって、何ものにも左右されない真の幸福境界を得ることです。この成仏を求めることこそが幸福への真の解決策となるのです。
 御法主日如上人猊下は、
「真の解決策も見出だせずに不幸と苦悩に喘あえぐ多くの人達を救済していくところに、地涌の菩薩としての尊い使命が存するのであります」(大白法 六九三号)
と御教示されています。私たちは地涌の眷属たる自覚のもとに慈悲と使命感を持って折伏してまいりましょう。

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