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自分の宗派だけを正しいと主張することは「エゴ」ではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 「エゴ」とは「エゴイズム」の略語で、利己主義という意味です。どの宗派もそれぞれ自宗の教えこと正当であり、利益があると主張します。たとえば念仏宗では捨閉閣抛といって他経を捨てよ閉じよと教えますし、禅宗では教外別伝といって釈尊の正意は文字で表されるものではなく、以心伝心で自宗のみに伝えられていると主張します。
 宗教の歴史を見ても、キリスト教やイスラム教はいまだに異教徒との闘争にあけくれています。これらのすべては自らの優越性を誇示するところに端を発しています。このように見ると宗教の世界は「エゴ」の集まりと考えられるのも当然でしょう。だからといって自己の正当性を主張することが悪いということではありません。
 たしかに、周囲を無視し、道理や現証を無視していたずらに自己の優越性のみを主張することは独断であり、悪しきエゴの宗教というべきです。したがって、真実に人間を救う教えであるか否かを合理的に検討し、その上で、〝悪しきエゴ〟の宗教か、正しい宗教かを決定すればよいわけです。少なくとも表面のみを見て〝宗教はすべてエゴだ〟と速断して宗教全体を否定することは、決して賢明な態度ではありません。
 難解な宗教教義を判定するひとつの基準として、原因があって結果が生じるというあたりまえの因果律に立脚しているかどうかということがあります。たとえばキリスト教では人間の起源は神が土の塵から造り出したものだといいますが、その神は誰によって作られたかという点は説いておりません。神道でも日本の国は神によって作られたと説きますが、天上の神の起源については何の説明もありません。仏教においてはじめて〝三世にわたる因果律〟を根本とする人間生命の真実相が説き示されたのです。人間が帰命依止する宗教が不完全なまま民衆に信仰と尊崇を呼びかけることこそ〝悪しきエゴ〟というべきです。
 仏教の中においても、釈尊が当時の人々に対して、低い教えから高い教え、浅いものから深いものへと、次第に説き示しながら機根(衆生の性格と心)を調養し、最後にもっとも完全で功徳力のある法華経を出世の本懐(目的)として説き顕したのです。
 これを釈尊自身も法華経のなかで、
「私が今まで説いてきた経典は数え切れないほどである。過去に既に説いたもの(已説)、今説いたもの(今説)、将来説くであろうもの(当説)、それらの中でこの法華経がもっとも深い教えである」(法師品第十・法華経三二五取意)
と、法華経がもっとも勝れたものであることを主張しています。
 日蓮正宗では、正法によって衆生救済を願われた日蓮大聖人の精神を受けつぎ、普遍的な宗教批判の原理に照らして、正を正とし、邪を邪なりと主張しているのです。

【折伏実践のために】

 正しいものが判らなければ、間違いも判らない
 どんな宗教でも幸せになれるのなら、日蓮正宗だけが正しいと主張することは、確かにエゴでしょう。
 しかし実際には、本文にあるように、闘争に明け暮れ、人の命を奪う宗教があります。命の奪い合いが幸せと思う人はいないでしょう。しかし邪宗教を信ずる人はその害毒で、
「辛からきを蓼りょう葉ように習ひ臭きを溷こん厠しに忘る」(御書 二四二㌻)
と日蓮大聖人様が『立正安国論』に仰せのように、正邪の分別がつかなくなるのです。また、正しい宗教を知らなければ、邪宗教の何が間違いなのかが判りません。
 ですから、そのような人にはまず、何が正しいかを教える必要があります。
 私たちが日蓮正宗の正当性を主張するのは、正しい宗教を知らない人に、邪宗教の間違いを知り、正しい宗教を信仰することで幸せになって欲しいからです。
 正しいことが判っていながら主張しないことは無慈悲であり、「嫌われたくない」、「不利益を蒙こうむりたくない」から言わないという行為こそ自己保身のエゴではないでしょうか。
 
 因果を無視して幸せはない
 私たちの現在の禍か福ふくは、すべて自分自身の過去の行い(先業)の結果であり、他人の責任ではありません。
 原因が自分にあるからこそ、自分を改めることで罪障消滅でき、解決ができるのです。
 『可か延えん定じょう業ごう御書』に、
「定業すら能よく能く懺さん悔げすれば必ず消滅す」(同 七六〇㌻)
と仰せのように、過去世の業因によって果報が定まっている今世の定業でも、過去無量の謗法罪障を深く反省懺悔し、妙法の教えを正直に実践すれば、変えていくことができるのです。
 それだけではなく仏教では、その教えを説いた仏そのものの成り立ちについても因果の道理の上に示されています。
 法華経には久遠常住の仏の因果が説かれ、さらにその本源における悟りの因果について大聖人様は、『三世諸仏総勘文教相廃立』に、
「釈迦如来五百塵じん点でん劫ごうの当その初かみ、凡夫にて御お坐わせし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟さとりを開きたまひき」(同 一四一九㌻)
と仰せです。
 ここでは、久遠元初という遥はるか昔において、釈迦如来は凡夫の時に、自らが妙法の当体と即座に悟られた仏であると明かされるのです。
 実はこの凡夫の身のまま妙法当体の仏として悟られた御方こそ、日蓮大聖人にほかならないのです。
 たとえ私たちが九界の迷いを持つ衆生であっても、尊そん極ごく無比の仏の生命が秘められており、本因下種の妙法を信じることで必ず成仏ができます。
 対してキリスト教等の神は、本文にある通り、自身がいかにして神になったのかを全く明らかにできません。そのような神に、衆生の救済などできるはずがないのです。
 
 表面の姿に惑わされてはいけない
 本文に念仏宗、禅宗という仏教の宗派が挙あげられます。それらの各宗は現在、他宗と連携を図り、様々な活動をしています。一見、このような在あり方のほうが、エゴから離れているように見えるかも知れません。
 しかし一切経を説いた釈尊自身が、法華経『方便品』に、
「正しょう直じき捨しゃ方ほう便べん」(法華経 一二四㌻)
と、法華経こそ一切衆生を等しく救う教えであるため、法華経が説かれた後、他の一切の経は捨てなさいと仰せです。さらに末法では、『上野殿御返事』に、
「末法に入りぬれば余経も法華経もせん詮なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書 一二一九㌻)
と仰せですから、それらの経々を依経とする浄土宗・真言宗・禅宗等は、それらを捨てるのが道理です。
 それにもかかわらず「自分はこれがよいと思う」という我見に執着して、宗派を立てることこそ、釈尊の真実の悟りを無視したエゴなのです。
 
 批判を怖れず折伏をしよう
 大聖人様は、『上野殿尼御前御返事』に、
「人のためによる火をともせば人のあかるきのみならず、我が身もあか明し」(同 七五一㌻)
と他人の幸せを願い行動することが、自身の幸せに結びつくと仰せです。
 御法主日如上人猊下は、
「一般社会においても、自分一人だけの幸せはありえないように、自他共の幸せこそ真の幸せであります。
 しこうして、自他共の幸せを実現するためには、大聖人の御教示に照らして、折伏をもってする以外には道はないのであります。なぜなら、一切衆生救済の秘法は、法華経本門寿量品文底秘沈の大法たる妙法蓮華経以外にはないからであります」(大白法 七九九号)
と御指南なされています。
 私たちは、大聖人様の教え以外に人を幸せへ導くことはできないことを確信し、未だ正法を知らない人たちに大聖人様の仏法を伝え、広宣流布へ向かって邁進しましょう。

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