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宗教が社会に評価されるのは福祉活動だけではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 「福祉」という言葉は〝幸福〟の意味ですから、広くいえば宗教の目的とも考えられます。しかし、ここでいう「福祉」は、困窮している人に物を恵み、飢えた人に食を与え、不自由な人の手助けとなり、慰めるという、一般的な意味であろうと思います。
 たしかに極端な個人主義と利己主義によるぎすぎすした現代にあって、他人の幸せを願い福祉活動に奉仕することはきわめて尊いことであり、さらに広く深く社会に定着させてゆかねばなりません。政治や行政の面からも福祉政策を強力に推進してほしいと願わずにはいられません。
 しかし宗教の存在価値や目的が福祉活動への奉仕だけであると考えるのは、大いなる誤解です。なぜならば、宗教とりわけ仏法では、正法によって生老病死の四苦を解決し、成仏という確固不動の安穏な境地に至ることを真実の救済とし、本来の目的としているのに対し、一般的な福祉活動はあくまで表面的一時的な救済措置だからです。
 またもし宗教の存在価値が、人々に物を与え、不自由な人の手助けをし、悩める人を慰めるだけで事足りるというならば、仏がこの世界に出現し、苦難と迫害の中で身命を賭して法を説く必要があったのでしょうか。私たちも本尊を礼拝し、修行を積み、教義の研鑚をすることもすべて不要となってしまうではありませんか。
 真実の宗教とは正しい法を信仰することによって、生命の根源に光をあて、活力にみちた仏の働きを涌きあがらせて、力強い人生を確立することにその目的があるのです。
 他人への親切や親への孝養といっても具体的な形態はさまざまです。仏法では人間を深く観達したうえで、孝養に三種ありと次のように説いています。
「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違はざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」(十王讃歎抄・平成校定三-二七八一)
 ここにも、物を与える孝養は下品であり、意にかなうことが中品、仏法によって功徳を回向(自ら修行した果報を他に回し向わせること)することがもっとも尊いことであり上品であると明かしています。
 物を与え、慰労するところの福祉活動が正しく実践され、持続し、実効を生むためにも、原点となる個々の人間に正しい智慧と活力を与える真実の仏法が必要なのです。
 言い換えれば、福祉活動をはじめ文化・社会・教育・政治などの各方面における活動、そして人間がなすすべての営みの基盤となり、根底にあって善導し、活力を与えてゆくのが正しい宗教なのです。

【折伏実践のために】

宗教に無智な人の考え
 「宗教が社会に評価されるのは福祉活動だけではないか」という考えは、真の宗教の目的・意義が判らず、まして「正しい宗教」・「間違った宗教」があることも知らない人によるものです。
 「福祉」や「慈善事業」、また「ボランティア」活動などは、よいことです。また、それを実行する人は、すばらしい人です。しかし、その活動だけで人々が幸福になることはありません。福祉活動により病気、事故、災害等様々な事情で困っている人が救われ、生活が安定したとしても一時的なものであり、根本原因である無始以来の謗法罪障を消滅し、真の安穏を得ることはできません。
 本文にあるように、正しい宗教は、成仏という安穏な境地を人々が得るために、必要な智慧と活力を与えるものなのです。
 ですから、「宗教が社会に評価されるのは福祉活動だけではないか」という考えは大きな間違いです。
 
 極楽寺良観
 極楽寺良観(忍性)は、日蓮大聖人より「国賊」と喝破されている謗法の僧侶です。
 この良観を慈善事業・福祉を行ったはしりとして挙げる人もいるでしょう。『本朝高僧伝巻第六十一』によれば、良観は、弟子の数二千七百四十余、寺院を建立すること七十九、伽藍を修営すること八十三、仏塔を建立すること二十、大蔵経を納めること十四、諸州に橋を架けること百八十九、百八十町の水田を寄せること二十二、道路を修すること七十一、井戸を掘ること三十三、人たちに与えた布衣三万三千とあります。鎌倉時代の民衆は、良観を「極楽寺の生き仏の良観聖人」「医王如来」と誉ほめ讃たたえていました。
 しかし、日蓮大聖人は、
「而るに今の律僧の振る舞ひを見るに、布絹・財宝をたくはえ利銭・借請を業とす。教行既に相違せり。誰か是を信受せん。次に道を作り橋を渡す事、還って人の嘆きなり。飯島の津にて六むつ浦らの関せき米まいを取る、諸人の嘆き是多し。諸国七道の木戸、是も旅人のわづらひ只此の事に在り、眼前の事なり』(御書 三八四㌻)
と、偽善に満ちた良観を破折されているのです。
 さらに、文永八年六月十八日から二十四日まで、良観との祈雨の闘いに勝利された大聖人様は、その正体を、
「一には名は持戒ときこゆれども実には放逸なるか。二には慳貪なるか。三には嫉妬なるか。四には邪見なるか。五には淫乱なるか」(同 一一四五㌻)
と破折されています。つまり、良観は正しい信仰を求めず、あろうことか名聞名利に心を奪われ、その強欲を満たすために慈善事業を行ったのであり、大聖人様はその心底を見抜かれていたのです。
 そもそも、福祉とか社会事業は行政等が中心となってなせるものであり、慈善事業やボランティアは、個人や任意団体においてそれを補うものです。
 宗教者においては、正しい仏法の意義・視点に立って、信仰活動に励んでいくことが大切です。
 
 能施太子
 『大智度論巻第十二』に、能施太子という方の有名なお話があります。
 世の中に充満する貧しい人・病気の人をすべて救うため、如意宝珠を得て、薬や食べ物を必要な人に与える話です。しかし、薬や食べ物を与えて終わりではありません。その後に仏法を説いて民衆を救済するのです。
 今にも死にそうな人がいたならば、何を差し置いても、その命を救わなければなりません。しかし、それだけでは救ったことにならない。正しい仏法を説いて、現当二世に亘って救うことができるのです。
 
 不幸の根源断つのが真の宗教
 御法主日如上人猊下は、
「天変地ち夭ようというものはいったい、どこから起きるのかということであります。
 このことについて、大聖人は明確に『立正安国論』のなかでおっしゃっているのでありまして、
『倩つらつら微び管かんを傾け聊いささか経文を披ひらきたるに、世皆みな正に背そむき人悉ことごとく悪に帰す。故に善神国くにを捨てゝ相あい去り、聖人所ところを辞して還かえらず。是ここを以て魔来たり鬼き来たり、災さい起こり難なん起こる。言いはずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず』(御書 二三四㌻)
と、これらの天変地夭あるいは人心の荒乱、世の中の不幸、苦悩、それらのすべての混迷の原因は謗法の害毒にあるのであり、『人悉く悪に帰す』つまり、邪義邪宗の害毒によるということを、末法の御本仏大聖人様は明言されているのであります。
 もちろん、色々な見方があります。科学的な見方であるとか、あるいは社会的な色々な見方がありますけれども、その根本のところはやはり邪義邪宗を許すところにある。ですから、邪義邪宗を破折しなければ日本も世界の国々も全部、世の中は平和にならないということになるのであります」(大白法 八一〇号)
と御指南されています。
 正しい宗教があって、はじめて諸悪の根源を断つことができるのです。
 大聖人様の正法を信じ、世のため、人のため、一生懸命に信心修行に励むことこそが、本当に幸せな境界を得るための唯一の方法です。自分が功徳を戴き幸せになると共に、他人をも幸せにしていくため、自行化他の折伏に精進していきましょう。

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