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世界平和を説く宗教が他の宗教を攻撃して争うことは自語相違ではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 平和といえばその反対が戦争であることは誰にでもすぐ思う浮かぶでしょう。
 戦争とはいうまでもなく国と国とが武力をもって争うことです。これを縮小した形が人と人の争いです。人どうしが争う原因を考えてみますと、まず自分の利益や欲望(エゴ)のみを充たそうするときに起きます。これを仏法では貪欲といいます。次に感情的な忿怒による場合があります。これを瞋恚といいます。また相手をよく理解しなかったり、考えが浅いために争いとなることもあります。これを愚癡といいます。その外に高慢心や猜疑心が争いのもとになることもあります。
 国家間の戦争も個人と同じように人間が本来生命に具有している貪瞋癡の三毒、あるいは慢疑を加えた五悪心の作用に起因します。しかも仏法の上から現代という時代をみると、今は末法といって、劫濁(時代・社会そのものの乱れ)、煩悩濁(苦しみの原因となる貪瞋癡などの迷い)、衆生濁(人間の心身両面にわたる汚れ)、見濁(思想の狂いや迷乱)、命濁(生命自体の濁や・短命)の五濁が強大となって、いたるところで争乱や殺りくが絶えまなく行われる時(闘諍堅固)と予言されています。
 たしかに人命軽視や刹那的欲望による犯罪、そして自己中心の風潮は現代社会の病巣として深刻な問題となっています。これらの社会問題が貪瞋癡の三毒という単に理性のみで解決できない生命の奥深い迷いから起こっているわけですから表面的な道徳教育や、倫理の訓話などで解決できるほど単純なものではありません。現に人殺しはいけない、暴力はいけない、親不孝はいけないと誰でも知っています。それでもなおかつこれらを犯してしまう事実は、もはや知識や教育の次元を越えて、人間生命の奥底から揺り動かす真実にして力のある仏法によらねばならないことを物語っています。国家間にあっても、一時的に争いが止み、戦火が鎮まっているといっても、それのみをもって真の平和とはいえません。なぜならばおたがいに三毒強盛の人間が動かしている国政、軍事であれば、いつまた火を吹き、殺し合うかもしれないからです。
 質問のように戦争と破邪顕正の折伏とを同一視して自語相違だといわれるのは、戦争を表面の争いという点だけを見て、その原因の三毒を知らないために生じたものでありましょう。真実の平和を確立するためには三毒強盛の人間性と五濁の世相を正し、仏法によって浄化し、一切衆生悉有仏性(誰人も仏になる可能性をもった尊い存在ということ)自利利他(自分も他人もともに幸せになること)の精神を共通の根本理念にしなければなりません。そのためには宗教の正邪・高低・真偽を厳格に区別し、選択しなければなりません。
 私たちの布教は決して争いを起こそうとしているのではなく、誤った宗教はあなたの人生を不幸にしますよと教えているのです。また折伏とは相手の人間を攻撃するのではなく、あくまでも邪悪な宗教や低級な思想を平和を破壊するものとして指摘し論破するものなのです。あなたの質問は、たとえば世界平和を実現するための会議で各国代表が部分部分で意見の食い違いがあったといって、それのみをとり上げて、自語相違だ無益だと非難しているようなものです。
 本来の折伏は民衆救済と世界平和という大目的のための破邪顕正であることを知るべきです。

折伏実践の手引き

 不幸を根底から解決するために
 本文にある通り、私たちの生命が、「貪瞋癡の三毒」という善の心を害する根本の煩悩に冒されることが原因となって、現今の世界各地の紛争が起きていると言えます。
 表面に顕われている原因としては、領土を巡るものや宗教の異なりによるものなど様々ですが、互いに「悪魔」「極悪人罵り合い、相手の存在を許さないという姿に、怨念や憎悪といった、三毒に冒された生命を見て取ることができます。
 怨念と憎悪による報復の応酬によって問題が解決するとは、誰も思ってはいないでしょう。にもかかわらず、人
類が何千年間も、報復の争いから逃れることができずに繰り返しているのはなぜでしょうか。
 この不幸を根底から解決するためには、この世を『天国と地獄』「神と人」といった二元論的な思想でとらえた
り、そこに執着していては真理にはたどり着けません。
 仏法では、いかなる人の生命にも仏や菩薩の生命が具わっていると説かれています。それが法華経の一念三千の法理であり、その現実の尊体が本門戒壇の大御本尊なのです。
 そして、人々が本当に善心を磨き。生命の尊厳を覚知して、清浄な社会を築いていくためには、正しい信仰を実践することが不可欠なのです。

 邪宗教によって三毒強盛となる
「貪・瞋・癡の三毒」とは。
貪・:貪欲のこと。自分の意のままにすべてを欲する良びの心、餓鬼の生命。
瞋・:瞋恚のこと。自分の意のままにならないと怒り狂う心。瞋りは他人に苦を与えるので、それが業因となり来世には自らが地獄の報いを受ける。
癡・:愚癡のこと。道理に迷う愚かな心。本能的に動く畜生の生命。
の三つのことです。
 日蓮大聖人様は『始聞仏乗義』に、
  『此の苦果の依身は其の根本を探り見れぱだ’貪・瞋・癡の三毒より出でたるなり』(御書 一二〇八ページ)
と仰せのように、多くの煩悩の中でも、最も悪しきものがこの三毒であり、見思惑・塵沙惑・無明惑の八万四千の煩悩も三毒から起こります。
 日蓮大聖人様は『曽谷殿御返事』に、
  「邪法をあいし、正法をにくむ。三毒がうじょうなり、日本国いかでか安穏なるべき・(中略)飢渇は大貧よりをこり、やくびょうはぐちよりをこり、合戦は瞋恚よりをこる。今日本国の人々四十九億九万四千八百二十八人の男女、人々ことなれども同じく一つの三毒なり」(同 1386ページ)
と仰せです。
 私たちの生命にある三毒は、邪宗教を信仰することによって盛んになります。その迷いの苦果が充満する時、単に個人が不幸となるばかりでなく、貪りは飢渇、瞋恚は戦争、愚痴は疫病を起こし、国内のみならず、全世界の人々と国土において悪の根元となるのです。
 折伏は一切衆生救済の慈悲行
 日蓮大聖人様は『善無畏三蔵抄』に、
  『仮令強言なれども、人をたすくれぱ実語・軟語なるべし。設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり』(同 四四五ページ)
と仰せられています。
 邪義邪宗の誤りを破折し正法へ導く言動は、相手を救い、幸せの境界に導く振る舞いです。たとえ厳しく思えたとしても、実は仏様の御心に適う慈悲に満ちた優しい言葉なのです。
 しかし、たとえ優しく思える言動であっても、仏の本意である法華経に背く教えは、人を傷つけ地獄に堕とす強言となります。正しい真理・道理を基本とする善悪を知ることが大切です。
 御法主日如上人猊下は、
  「仏界の生命による用は、人を慈しみ、正義を護り、平和を愛し、思いやりのある人格を作り、多くの人からも頼りにされ、周囲の人や世間にさわやかな風を送り、世の中をよくする用きをしますが、反対に、魔に魅入られた人は、争いを好み、悪に染まり、破壊を好み、自己本位の人格となって、わがままで、我意・我見に基づいた考えを持ち、世の中に争いと怒りをまき散らすのであります」(大白法 九〇五号)
と、御指南されています。
 私たちは、魔の横行を許すことなく、最高至善の大御本尊の縁に触れた仏界の生命の用きをもって、世の中を救う
破邪顕正の折伏に邁進いたしましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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