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今が楽しければそれでよいではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
「今が楽しければ」という言葉のひびきには、まったく将来のことを考えず、苦しみを避けて、いまの楽しみばかりを追い求めるというニュアンスが感じられます。
 それは、おそらく、若いときの楽しみは若い時にしか味わえないという考えから、オートバイの爆音や、ロックの喧騒のなかに我を忘れ、酒や歌、そしてダンスに陶酔のひとときを過ごす若者たちに共通した考えかたであると思います。
 その反面、いまの楽しみより将来の楽しみを目指して、つらさに耐え、少しでも自分の持てる能力や才能を伸ばそうと、懸命な努力を重ねている若者たちも、けっして少なくありません。
 安易に目前の快楽のみを求める若者たちの生きかたは、蟻とキリギリスの寓話の教訓をまつまでもなく、苦労を続けながらも真剣に生きている多くの人たちに比べて、あまりにも人間として分別のない、しかも後に必ず苦しみと後悔をともなう生きかたではないかと思います。
 だからといって、人間は若い時には何がなんでも苦労ばかりをして、楽しみなどを求めてはいけない、というのではありません。
 青年の時代こそ、人生を真に楽しんで生きていくための基盤を、しっかりと築き上げる時であると言いたいのです。
 「楽しみ」というものの本質について、仏教では、五官から起こる欲望を五識によって満たし、意識(心)にここちよく感ずることであると明かしています。
 五官とは、眼(視官)・耳(聴官)・鼻(嗅官)・口(味官)・皮膚(触官)をさします。すなわち、眼にあざやかな色形を見る楽しみ、耳にここちよい音や響を聞く楽しみ、鼻にかおりのよいものを嗅ぐ楽しみ、口中の舌においしいものを味わう楽しみ、皮膚(身体)にここちよいものが触れる楽しみを欲するところを五欲といい、五官によって判断することを五識といいます。
 要するに、人間の楽しみのほとんどは、この五欲の一つ一つが満たされるか、そのいくつかが同時に満たされるかの度合に応じて起こる、情感であることがわかると思います。
 したがって、五欲そのものは、けっして悪いものではありません。しかしそこに、人間の煩悩(貪・瞋・癡などの迷い)が働きかけた時、はじめて五欲は、無謀性を発揮し、欲望の暴走となってあらわれたり、意のままに満たされない不満がつのって、怒りを感じたり、落胆のあまり、自暴自棄になったりして、自分や社会を破壊してしまうことにもなりかねないのです。
 五欲とは、ちょうど火のようなものだといえます。火そのものは、悪でも善でもありませんが、私たちの使いかた如何によっては、生活に欠かせない便利なものにもなる半面、不始末などがあれば、すべてのものを一瞬のうちに灰燼にしてしまう、ということにたとえられるでしょう。
 いわば、一時の快楽を飽きることなく求める若者たちは、煩悩の働きがそれだけ旺盛だともいえましょう。その旺盛な煩悩の猛火をそのまま自分の将来の幸福と社会に役立つ有益な火に転換させるところに、正しい宗教と信仰の持つ大きな意義があるのです。

【折伏実践のために】

未来のことを考えて生きることの喜び
 現代はストレス社会とも言われ、その環境から逃れるために誰もが楽しみを求めるものです。ほんの一時の快楽であっても、その楽しみによってストレスを解消することもあります。その意味からは、「今が楽しければそれでよい」という考えは、けっして間違った考えではないでしょう。
 しかし、苦楽の本質を知らずに「今が楽しければ」と快楽ばかり追い求めていると、次第にその欲望が膨ふくれ上がり、抑え切れなくなり、ついには欲望の奴隷になってしまいます。
 これについて、法華経には、
「貪著五欲(著欲)」(法華経 四三四㌻)
と説かれています。これは欲望に執着するあまり、本来の正しい教えや行動を求めることができないことをいいます。
 この悪業(悪い行い)をいくら積み重ねたとしても真の幸福を得られることはありません。すなわち、楽しみを求めているのにもかかわらず、かえって苦しみを招いていくことになるのです。
 また、日蓮大聖人は『新池御書』に、
「抑そもそも人界に生を受くるもの誰か無常を免まぬかれん。さあらんに取っては何ぞ後世のつとめをいたさゞらんや」(御書 一四五六㌻)
と仰せです。
 ただ、今の自分のことだけを考えて生きるのではなく、はるか来世のことまで見据えて生きていくことこそ、非常に意義があるということです。
 ただし、信仰を持たない人に「自分の来世のことを考えなさい」と言っても、ピンとこないかも知れません。
 しかし、自分の五年後はもちろん、十年後、二十年後の未来、さらには来世の幸福を願って、今の時を生きていくことによって、今世における自身の振る舞いが、真に価値のある正しいものになっていくのです。
 
 貪瞋癡の三毒
 日蓮大聖人は『曽谷殿御返事』に、
「減劫げんこうの時は小の三災をこる。ゆは所ゆる謂飢け渇かち・疫病・合戦なり。飢渇は大貪だいとんよりをこり、やく疫びゃう病はぐち愚癡よりをこり、合戦は瞋しん恚によりをこる」(同 一三八六㌻)
と仰せであり、御法主日如上人猊下は、
「そもそも、貪瞋癡の三毒とは、善根を毒する煩悩であります。
 『大乗義章』には、三毒は毒蛇の如く、また毒竜の如きであるが故に、毒と名づけるとあります。また、三毒が充満した時には、個人だけでなく、一国をも不幸にするとあります」(大白法 八〇六号)
と御指南されています。
 貪とは、度の過ぎた欲望、貪むさぼり愛することです。
 瞋とは、瞋いかり恨うらむことです。
 癡とは、道理を弁わきまえない愚なことをいいます。
 欲望を満たすことは楽しみではありますが、本文にもあるように、人間の欲望が、この貪瞋癡の三毒に支配されると、一転して、個人も、家庭も、国家も不幸になります。
 この貪瞋癡の三毒は、一切の煩悩の根本と説かれており、誤った教え、つまり邪宗教によって増大していきます。したがって、正法に背そむいて間違った信仰のもとに幸福を求めることは、すべての不幸、すべての災害の根源となることを知るべきです。
 
 煩悩即菩提の利益
 御法主日如上人猊下は、
「大聖人の仏法は、煩悩即菩提の原理によって、この貪瞋癡の三毒の煩悩を即、菩提に転じていくのであります。まさに、法界を浄化していくのが妙法の広大無辺なる功徳力であります。
 我々は、大聖人の弟子檀那として、多くの人を塗と炭たんの苦しみから救っていかなければなりません。この地球上から戦争をなくし、平和な世界を築き、世界中の人が幸せになるためには、末法の御本仏日蓮大聖人の正しい仏法に依らなければならないことを知るべきであります」(同)
と御指南されています。
 すなわち私たちは、自身の中から吹き出す満たされない気持ちや思い通りにならないことによる憤いきどおりなどで三毒の煩悩によって苦しみます。物事が思い通りに運ぶこともありますが、多くは一時的なものであり、再び起こる欲望により一層苦しむことになるでしょう。それらの煩悩を浄化し、自身だけでなく他人のために役立てていける徳へと転ずることができるのが、大聖人の教えであると仰せです。
 自身の苦しみの人生を他人と共に喜ぶ人生に転ずることができる、これ以上の喜びがどこにあるでしょうか。
 正しい仏法、すなわち大聖人の文底下種の妙法を受持信行していくことが本当の楽しみを得るための唯一の方法であり、これによって煩悩を菩提と転じ、真の幸福、平和を打ち立てていくことができるのです。
 より多くの人々が、真の楽しみと喜びある毎日が過ごせるように折伏に精進してまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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