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手を合わせて拝むことは恥ずかしい

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 手を合わせて拝むことが恥ずかしいというその心の底には、信仰は年寄りくさいとか、弱い人間が行うものなどの宗教に対する偏見があるのではないでしょうか。いずれにしても〝恥ずかしい〟ということは、世間の目が気になる、周囲の人たちから変な目で見られないかという懸念があるからでしょう。しかし、自分でよいと思えば、たとえ変わった服装で街を歩いたとしても、別に恥ずかしいなどとは思わないものです。人間にとって最高の幸福をもたらす正しい信仰には必ず合掌がともないます。ですから合掌が恥ずかしいというのは、医者から薬をもらっても、人に見られたら恥ずかしいといって薬を飲まずに病気を悪化させるようなものです。
 病気を治そうと思えば、つまらない見栄を捨て薬を服するのが当然でしょう。それと同じように、日蓮正宗が自分の人生にとってもっとも大切であり、絶対に正しいと確信するならば、合掌が恥ずかしいなどは感じなくなるはずです。
 合掌は荘厳な仏前で、もっとも尊い御本尊に向かって清浄な心で行うものであり、その十指は十界互具を意味し、胸にあてるところは、我が胸中の心性の白蓮華を生じ、そして南無妙法蓮華経と唱えるところは無作三身・事行の一念三千の当体であるという深い意義を備えているのです。
 このことを日蓮大聖人は、
「合掌とは法華経の異名なり。向仏とは法華経に値ひ奉るを云ふなり」
(御義口伝・新編一七三四)
と仰せられ、真実の合掌は最高の教えである妙法蓮華経に帰依する姿であると説かれています。
 ですから人間として真に幸福を願うならば、自分の小さな感情にとらわれず、また、つまらない世間の目を気にせず、真実最高の日蓮大聖人の仏法に目を開き、正直な心で手を合わせ、御本尊を拝むべきです。
 人間にとって恥ずかしい行為というのは、人の道を踏みはずしたり、法を犯したり、他人に迷惑をかける行為をいうのです。
 宗教に対する知識を深め、自己の幸福はもちろんのこと、社会に平和をもたらす崇高な教えを正しく信仰するということは、恥ずかしいどころか、人間としてもっとも誇るべき行為なのです。

折伏実践のために

合掌の姿が表わすこと
 食前の「いただきます」と食後の「ごちそうさま」。
 誰かに「お願いします!」と何かお願い事をするとき。
 失敗をしてしまい「’めんなさい」と謝るとき、などなどに、自然と合掌の動作をしていることがあるのではな
いでしょうか。
  「合掌」の表象(イメージ)は、一般的にも、身体をもって尊敬・感謝の意を示すものとして解釈されていま
す。
 仏教ではどうでしょうか。
 インドではよく、仏教徒が両膝。両肘、そして額を地面に伏して礼を行う五体投地をもって。神仏への尊敬の意
を表わしています。
 このことについて御隠尊日顕上人猊下は。
  「日本の国士社会では、これを真似必要はなく、要は姿勢を正し、手を胸のところで合掌し。礼拝をなすことが身体をもってする南無の義に当たります」(妙法七字拝仰上-三一ページ)
と御指南されています。      
 日蓮大聖人様は『御義口伝』に、  
  「合掌とは法華経の異名なり。向仏とは法華経に値ひ奉るを云ふなり。合掌は色法なり、向仏は心法なり。色心二法妙法と開悟するを歡喜勇躍と説くなり』(御書1734ページ)
と仰せられています。
 手の指は十界及び三千の諸法を表わし、左右の掌を合わすことは十界互具を意味し、胸中に当てるのは、心性の白蓮華(仏性)に通じるのです。
 私たちのふだんの所作(振る舞い・言動・所行)は身口意の三業から起こります。したがって、法華経『方便品』に、
  「合掌し敬心を以て 具足の道を聞きたてまつらんと欲す」(法華経九七ページ)
とあるように、円満真実の教えである妙法の悟ひを得たいとの一心で御本尊様に向かう、その尊い一念が外に現われたのが、合常の姿と言えます。
 真の幸福を実現するためには
 合掌とは、信仰の対象である御本尊に対して自らの命を帰す「南無(帰命)」ることや、信順の表われですから、自分自身の我が強く。正直で素直になれない人は、心から「手を命りせて拝む」ことは、できないのです。
「恥ずかしい」という心の起こる原因は、ここにあります。
 しかしながら、慢心や我見にとらわれることによって、苦しみを、なお盛んにしてしまいます。
 人は、肉体的、精神的、心における悩みなど、常にあらゆる種類の苦しみに苛まれています。その苦しみや悲しみ、また困難なことを解決しようと、どんなに思いを巡らせても、その解決方法を見出すことは容易なことではあ
りません。
 仏法では、生・老・病・死など、誰しもが直面する人生の本質的な苦悩を、根本的に解決する道を説き示しています。本質的苦悩を解決せずして、真の幸福はあり得ません。
 そして、真の幸福とは観念的なものではなく、因果の道理を基とした正しい信仰によって、自己の内面にある健全な生命を確立し、深い智摯と強い心を養うことによって初めて、現実にもたらされるものです。
 どのようなことにも、けつして揺らぐことのない劈厭な境界、それが真実の幸福です。その幸福を求めて、信仰を持ち、幸せになりたいと手を合わせて拝むことは、「恥ずかしい」ことでしょうか。
 むしろ、正しい法を求め、自ら行じ、共に幸福になろうと他人にも勧めていく人生に誇りをもっていただきたいと思います。
 日蓮大聖人様は『弥三郎殿御返事』に、
  「人を憑みてあやぶむ事無かれ。但偏に思ひ切るべし」(御書1165ページ)
と仰せです。
 誰かの評価に依存したり、自分の人生にもかかわらず他人に責任を求めるようでは、けっして幸せになることはできません。五濁爛漫の世の中にあって。本物の幸せ。成仏の境界を築くには。まず誤った思想や信仰を断ち切り、妙法を根本にした人生の確立が大切です。
 そして、誤った、邪な思想や宗教を喧伝して、仏法の規範から人々の眼を逸らさせ。不幸に陥れる謗法を容認せず。正邪を知らないためにそれらに乎を合わせてしまう人々に、真の幸福の道を説いていくべきであります。

 今日から心構えを新たに
大聖人様は「御義口伝」に、
  「朝々仏と共に起き、夕々仏と共に臥す」(同 一七四九ページ)
と仰せあそぱされています。
 朝夕の勤行を毎日の生活の中心とすることにより、御本尊様の広大な功徳に浴した人生を送ることができます。
 しっかりと勤行を継続した人とそうでない人とでは、功徳も境界も大きな違いが出てくるのです。
 御法主ぼ如上人猊下は、
 「いい加減な姿勢で勤行をしてはいけないのです。やはり、きちんと背筋を伸ばして、しっかりと御本尊様を拝して勤行をするということが、極めて大事なのです。(中略)御本尊様を見ないで下を向き、畳を拝んでも功徳はないのであり、きちんと御本尊様を拝することが一番の根本になるわけです」(大白法 八二二号)
と御指南されています。勤行。唱題中は、心に雑念を起こすことなく。はっきりとお経・御題目を唱え、御本尊様をしっかり拝して行うことが本当の勤行の姿勢です。
 心身共に、勤行の際の合掌の姿勢を今一度点検していくことが、あらゆることの見直しにも繋がっていきます。日々の勤行・唱題を根本に励んでまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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