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法華経について⑱

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法華経について(全34)
18大白法 平成27年7月1日刊(第912号)より転載

『安楽行品第十四』
 今回は迹門最後の品である『安楽行品第十四』です。当品の内容は、像法摂受の内容を説き、必ずしも末法折伏の修行の内容ではない箇所もありますので、これらの点に留意しながら学んでまいりましょう。
 さて釈尊は『見宝塔品』で滅後における法華経の弘通を勧められ、『勧持品』では、まず薬王菩薩・大楽説菩薩らが滅後における娑婆世界での法華経弘通を誓願しました。次に、舎利弗ら五百人の阿羅漢、学無学の八千人の声聞、摩訶波闍波提や耶輸陀羅ら六千人の比丘尼が、悪国土である娑婆世界以外の他土における法華経の弘通を誓うのでした。
 これに対し、娑婆世界に住む八十万億の不退転の菩薩が悪世末法における法華経の弘通を誓ったのです。この不退転の菩薩の誓願の中で有名な勧持品二十行の偈が述べられ、三類の強敵の難が示されたのでした。

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  四安楽行
 さて当品に入り、文殊師利菩薩は『勧持品』の誓願を聞いてお考えになります。
 修行を積み不退転の境地に至った菩薩たちは、たとえどのような難が起きようとも、それを耐え忍び、法華経を弘通する修行をすることができます。
 けれども、まだ浅い境界の菩薩は、このような大難が起きることを聞いて恐れる心を生じ、それによって退転してしまうものも出てくるでしょう。
 そこで、仏の滅後の悪世において、初心の菩薩たちがどのように法華経を弘めたらよいのかを、釈尊に伺い申し上げたのです。
 これに対して釈尊が説かれたのが、身・口・意・誓願の四安楽行です。
 まず第一の身安楽行では、菩薩の行処と親近処ということが説かれます。
 このうち行処では、菩薩が忍耐の徳を守り、その振る舞いが軽はずみや荒々しくなく、善事も悪事も忍ぶべきことが説かれます。そして、仏法の真理である中道の理をよく観じて執着せず、それによって諸法のありのままの姿を見るべきことが説かれます。
 次の親近処では、権力者や邪な教えを説く者などの患いから離れ、閑かなところにあって座禅を行い、心を修めることなどが示されます。この戒と定に対し、さらに中道実相の慧が説かれます。
 第二の口安楽行では、まず像法摂受の修行として、人や経典の誤りを指摘してはいけない等の注意が示されます。
 このように口安楽行は、末法の折伏行に直截的に当てはまるわけではありませんが、前御法主日顕上人猊下は、
「折伏は相手を軽んじ見下げて侮辱することでは決してないのです。(中略)摂受も折伏も心は一つ、慈悲心であります。その意味においては、やはりこの教えに大事な意味があるわけです」(大白法 五三六号)
と御講義され、我々の折伏における心構えについて、慈悲の上から折伏を行うことが大切であると御指南されています。
 このほか、言葉遣いを穏やかにして安らかな態度をとり、質問に対しては方便の教えで答えるのではなく大乗の法をもって答え、仏の智慧に導くべきことなどが示されます。
 第三の意安楽行では、まず嫉妬や諂いの心を抱いてはいけないと説かれます。さらに仏道を学ぶ者を軽蔑して罵ったり、無意味な論義、つまりいい加減な気持ちで法門を学んだり論じてはいけないなどの注意がなされます。
 その後、菩薩は一切の人々に大きな慈悲の心を起こし、諸仏に対しては父の思いをなして敬い、諸菩薩に対しては師匠であるとの念を起こすべきことが説かれます。そして、人々に、分け隔てなく平等に教えを説くべきであると示されます。
 第四の誓願安楽行では、在家・出家の人に対しては大きな慈しみの心を持ち、三界六道を流転する人に大きな哀れみの心を起こしなさいと説かれます。そして、これらの人々が仏法に暗く法華経を信じようとしなくとも、自らが真実の悟りを得たならば、彼らを法華経に導こうと誓願するように仰せられます。
 こうして四安楽行を説かれた釈尊は、続く偈文で、「このような実践を心がけて法を説く人は、あらゆる人々から褒め称えられ、諸天善神も昼夜にわたって、常に法を聞くために、その人に従って護衛するでしょう」と説かれました。この経文が、
「諸天昼夜常為法故而衛護之」
であり、私たちが朝の勤行の初座で、御観念文として申し上げているものです。 

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  髻中明珠の譬え
 法華経はあらゆる経々の中で最も勝れた経典であり、仏様もなかなか説かれることはありません。そのために妙法蓮華経の名を聞くことすら得難く、ましてや見聞し、受持し、読誦することはそれ以上に難しいのです。
 これを譬えられたのが「髻中明珠の譬え」です。
 転輪聖王は非常に強い力を持っていて、その命令に従わない諸国の王を討伐しました。
 この時に功績のあった家臣へ、ある者には土地や田畑、村落や城を与え、またある者には珍しい宝物や馬、人民を与えて報いました。
 けれども転輪聖王は、髻の中に納めてある明珠だけはけっして与えなかったのです。なぜならば、これは最も勝れた宝であるために、妄りに与えてしまうと、周りの人々が大いに驚いて怪しんでしまうからです。
 しかし、それでも真に勲功のあった者に対しては、転輪聖王も大きな歓喜をもって、頭上の髻をほどいて、褒美として明珠を与えられるのです。
 同じように、仏様は法王として弟子たちと共に、三障四魔の魔王と闘われます。その弟子たちがこれらの魔を破すのを見れば、仏様は喜ばれ、さらなる教えを説いて人々に歓喜の心を生じさせるのです。
 しかし、なかなか法華経は説かれません。この法華経は一切の人々を仏果に至らせることができる第一の経典ですが、この世の中にあっては怨が多く信じ難いために、四十余年間は説かれなかったのです。
 そして、転輪聖王が髻の中の明珠を与えるように、今、法華経を人々のために説かれることが述べられ、当品を結ばれます。 

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  摂受と折伏
 宗祖日蓮大聖人様は『開目抄』に、
「夫、摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。(中略)無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす、安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし」(御書 五七五頁)
と仰せられ、法華経の弘通について摂受と折伏の立て分けを御教示されています。
 この摂受と折伏は、その時と機によってどちらの方途を用いるかが決まるのであり、末法の日本は折伏を前とするのです。
 すなわち、日興上人が『五人所破抄』に、
「今末法の代を迎へて折伏の相を論ずれば一部読誦を専らとせず。但五字の題目を唱へ、三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責むべき者か。此則ち勧持不軽の明文、上行弘通の現証なり。何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや」(同 一八八〇頁)
と仰せられる通りです。我々は難来たるを安楽と心得て負けることなく、適切に謗法を破折し、大聖人様の仏法を弘めていかなければならないのです。
 さあ、本年度の折伏誓願目標の完遂をめざし、後半の折伏戦に励んでまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
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