法華経について(全34)
23大白法 平成27年2月1日刊(第926号)より転載
『随喜功徳品第十八』
滅後の五品の最初
-随喜品の因の功徳を明かす
前回の『分別功徳品第十七』では、『寿量品』で、釈尊の久遠の本地と常住の化導を信解した在世の衆生の功徳が説かれると共に、在世の衆生と滅後の衆生が、『寿量品』を聴聞し、利益を受けていく過程を、現在の四信と滅後の五品という形で説かれました。その中で、大聖人様が重視されたのは、現在の四信中の初め一念信解、それから滅後の五品の最初である随喜品であり、これらは信心の位です。
この四信五品から後、法華経が終わるまでは、法華経本門の流通分と言って、中心の『寿量品』の教えを流布し、衆生を利益していくことを目的とする段に当たるのです。特に、これまでの地涌の出現などからも判るように、本門は滅後末法の一切衆生を利益することに主題があります。
そこで、今回の『随喜功徳品』からは、釈尊在世の人の功徳を説いた現在の四信よりも、滅後の五品が主となり、特に最初の随喜品の功徳が説かれるのです。『随喜功徳品』では、この随喜品の因果の功徳のうち、因の功徳が説かれます。
五十展転随喜の功徳
そこで、この本門『寿量品』の説法を聞いた弥勒菩薩をはじめとする人たちが、実際にどのような利益を受けたのか。それが、今回の『随喜功徳品』の前半に説かれます。
冒頭、弥勒菩薩が、釈尊に問いました。
「釈尊が入滅された後に、この法華経を聴聞して、心から喜んで有り難いと思うならば、その人はどれほどの福徳を得るのでしょうか(趣意)」(法華経 四六四頁)
釈尊は次のように答えました。
「弥勒よ、仏の滅後に、出家の男女、在家の男女、その他智慧の有無、老若男女を問わず、誰でも、法華経を聞いて随喜し、説法の座から出て、寺院、静かな場所、あるいは城市、町、田舎などへ行って、聞いた通りに、父母や親類や友人、知人のために力に応じて法を説いたとしよう。この人たちもこれを聞き終わって随喜の心を起こすであろう。そして、この人たちが、さらに他の所に行って、この教えを伝えていく。次の人も聞き終わって随喜の心を起こし、このように次々と展転して第五十人目の人に至ったとしよう。
弥勒よ、この第五十番目のただ法華経『寿量品』の教えを聞いただけの人の功徳を、これから説明しよう。
例えば、四百万億阿僧祇という数え切れないほどの多くの世界には、様々な種類の衆生がいる。ある人が施主となって、これらの衆生の一人ひとりが好むところに従って、いろいろな娯楽の道具や宝石、さらには宮殿や楼閣などを惜しみなく与えたとしよう。そして、一切の衆生に施し続けて八十年にも及んだとき、大施主は『私は思うままにいろいろなものを布施してきたが、彼らも既に年老いて八十歳を超えた。髪も白く顔にしわが出て、死ぬのもそう遠くないであろう。それではここで、仏法をもって彼らを教化し、悟りに入らせよう』と考えたのである。そして、大施主は、衆生を集めて仏の教えを説き、阿羅漢という小乗教で最高の悟りに導いたとしよう。
弥勒よ、この大施主の得た功徳はどのくらい大きいものであると汝は考えるのか(趣意)」(同 四六四頁)
弥勒菩薩は、
「世尊よ、この人は、莫大な財宝を施した上に、人々を阿羅漢の悟りに導いたのであるから、はなはだ大きな功徳を得たことでありましょう(趣意)」(同 四六七頁)
と、答えました。
そこで釈尊は次のように弥勒菩薩に説かれたのです。
「しかし、その功徳とても、第五十番目の人が、法華経『寿量品』の一偈だけを聞いて随喜する功徳に遠く及ばないのである。その百分・千分・百千万億分の一にも及ばないし、計算、譬喩をもっても知ることができないほど、はるかに及ばないのである。
第五十番目の人の功徳ですら、これほど大きいのであるから、最初の説法の座で教えを聞き、随喜し、他の人にも説き聞かせた人の功徳は、どれほど大きいであろうか。それは何物をもっても比べることができないのである(趣意)」(同 四六七頁)
このように八十年にわたって広く多くの衆生に無量の財施・法施を尽くした大施主の功徳であっても、五十番目に法華経のたった一偈を聞いて随喜した人の功徳には、百千万億分の一にも及ばないと説かれました。
この法華経の一偈とは、在世の衆生にとっては文上顕本の『寿量品』の一偈であり、滅後末法の衆生には文底顕本の本因下種の妙法の一偈を意味します。
ここに説かれる第五十番目の人の功徳は、最初にこの法華経『寿量品』を聴聞した人の随喜の功徳より、展転し伝わるため後に行くほどその功徳は次第に薄くなり、さらに最初聞法の人から四十九番目の人までは、自ら法を聞いて、また他の者にも法を説くという、自行化他の二徳が具わっていますが、五十番目の人には化他の功徳がなく、ただ聞法による随喜の功徳のみしか具わりません。しかし、その功徳ですら絶大であり、まして最初に聞法し、法を人に伝えた功徳は比べることができないほど大きいのです。
大切なことは、ただ随喜の心を起こすだけでも莫大な功徳が現われることはもちろん、さらに一歩進んで、その随喜の心をもって他の人にも勧めていく、共々に妙法の題目を唱えていく、というところにあります。
法華経聴聞の功徳
五十展転の随喜の功徳について説かれた釈尊は、続いて法華経聴聞の功徳を三点挙げられました。要約すると次の通りです。
一、妙法の教えを聞くために、寺院へ行って、ほんの少しの間でも、この妙法を聞いたとしよう。この人は、その功徳によって、来世にはすばらしい乗り物を得て天宮に導かれるであろう。
二、法華経を講説している場所に座り、また他の人にも座を分かって座らせ、その教えを聞かせたならば、その功徳によって、帝釈天・大梵天王・転輪聖王の座に上ることができるであろう。
三、「一緒に法華経を聴聞しに行こう」と言って、他の人を誘ってこの教えを聞いたとしよう。その人は、その功徳によって、来世には能力の優れた菩薩に遇って智慧をいただき、病気がなく、健康で美しい姿を保ち、代々生まれ変わっては、仏にお遇いして、この教えを諭されて信受するであろう。(法華経 四六八~四七〇頁)
そして最後に、釈尊は弥勒菩薩に対し、
「弥勒よ、ただ一人の人を誘って妙法の信仰に入らせただけでも、これだけの功徳があるのであるから、一心にこの経を読誦し、大衆のために広く説く者の功徳はなおさらである(趣意)」(同 四七〇頁)
と説かれ、以上で『随喜功徳品』の内容は終わります。
御法主日如上人猊下は、
「日蓮大聖人は『御義口伝』のなかで、この五十展転について、
『五とは妙法の五字なり、十とは十界の衆生なり、展転とは一念三千なり(中略)五十人とは一切衆生の事なり』(御書 一八一一頁)
とおっしゃっております。この『五十人』ということを考えてみると、いわゆる特定の人に限られたのではなくして、妙法を聞いて随喜する一切衆生を指しているのであります。だから妙法を聞いただけでも、これだけのすばらしい功徳があり、さらにこの妙法を聞いて他の人に説く、つまり折伏をする功徳はどれほど大きいかということが解るのです」(大白法 七二二号)
と仰せられています。
末法の観心である文底本因下種の妙法の功徳を聞いて、ただ随喜するだけであっても、八十年の布施の功徳に百千万億倍勝れているのですから、現在、私たちは、御法主上人猊下の御指南のもと、折伏を中心に自行化他の仏道修行をさせていただける身の福徳に感謝し、本年も誓願達成に向けて勇躍して精進してまいりましょう。