法華経について(全34)
24大白法 平成28年3月1日刊(第928号)より転載
『法師功徳品第十九』
前回の『随喜功徳品第十八』では、五十展転随喜の功徳を説き、滅後の五品(随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品)の初めである随喜品の因の功徳を明かして流通を勧められました。
今回の『法師功徳品』では、随喜品の果の功徳である六根清浄を明かして流通を勧めます。
『法師功徳品』の題号について
「法師」とは、一般的な意味として、仏法に精通し、清浄な行を修し、師として人々を導く僧を指しますが、法華経においては『法師品第十』にも説かれるように出家在家を問わず、この妙法を信じ説く者すべてを「法師」と称します。天台大師は『法華文句』において、この法師の法は法華経、この法を師とする故に法師とする意義と、法を衆生に弘めて師となるが故に法師とする意義を挙げられています。
当品における「法師」とは、『法師品第十』で説かれる五種法師のことで、法華経を受持し、経文を読み、また誦(経文を諳んじて読むこと)し、解釈して他に説き、書写するという五種類の修行をする者のことです。
また、「功徳」とは、五種の修行によって、私たち一人ひとりに具わる六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が、清らかになる六根清浄の功徳のことです。
六根清浄の功徳
六根清浄とは、私たちの眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚、認識器官が、煩悩を有したままその汚れを払い、清らかになることです。
当品の冒頭、釈尊は、常精進菩薩に対して、この六根清浄の功徳について明かされます。
「もし善良なる男女が、この法華経を受持し、あるいは読誦し、あるいは解説し書写したならば、この人は眼に八百の功徳、耳に千二百の功徳、鼻に八百の功徳、舌に千二百の功徳、身に八百の功徳、意に千二百の功徳を得て、その功徳によって六根が荘厳され、皆清浄になるであろう(趣意)」(法華経 四七四頁)
と、この五種法師を修行することで眼・鼻・身の三つにそれぞれ八百の功徳が具わり、耳と舌と意にはそれぞれ千二百の功徳が具わります。そして、これら六根の功徳を全部合わせると六千の功徳を得ます。
前御法主日顕上人猊下は、この「六千」の功徳や「八百」と「千二百」という数について、次のように詳しく御指南されています。
「これは、安楽行の意義の上から法華経の修行の功徳に十善があり、その十善の一つにまた十善が具わっておるが故に百善となり、その百善中の一々に十如是の法門が具わるので、千の善を成じ、その千の善についても自行と化他の両面から示され、また行ずるので二千の善となり、さらに『大慈悲為室』『諸法空為座』『柔和忍辱衣』という衣座室の三軌の意義が具わり六千となるのであります。
この六千を六根に配するならば、一根について一千の功徳が存するという次第でありまして、その一千についてさらにまた、用きの上から能盈・能縮の意義が存するのであります。能盈とは『みちる』の意でありますから千二百となり、能縮とは縮まる意味において八百となるのでありまして、このような意義の上から経文に『千二百』『八百』という数が示されておるのであります」(大日蓮 五五六号)
次に五種法師の修行によって、六根それぞれに得る清浄の功徳について、『法師功徳品』に説かれる内容に従って、要約して説明します。
①眼根清浄の功徳―父母から授かった肉眼が清らかになり、全世界の有り様を、下は極悪の阿鼻地獄から、上は最高の有頂天に至るまで、よく見ることができる。また、その中に住んでいる一切の人々が、どんな生き方をしているか、彼らの業の原因や果報、生まれた境界などをことごとく見ることができる。
②耳根清浄の功徳―父母から授かった耳が清らかになり、象・馬・牛の声、ホラ貝・鼓・鐘・鈴の音、男・女・凡夫・聖人・天人・竜・夜叉・餓鬼の声など、全世界のありとあらゆる声を聞くことができる。もろもろの僧や尼僧、また菩薩たちが経典を読誦し、また人に読み聞かせる者があれば、ことごとくその声を聞くことができる。仏が衆生のために、大法座にあって、微妙の法を説かれるときも、その声をすべて聞くことができる。
③鼻根清浄の功徳―鼻は清らかになり、全世界のよい香をかぎ、またいろいろの香をかぎ分け、その所在を知ることができる。この世界における香だけでなく、天上界の諸天・梵天や最高の有頂天に至るまでのいろいろな香をかぎ分けることができる。また、人間の心の状態もかぎ分け、修行者たちがどのような場所でどのように修行をしているのか、それらのすべてを香りによって知ることができる。
④舌根清浄の功徳―舌は清らかになり、どんな味のよいものも悪いものも舌の上に乗せれば、すべて甘露のように最上の美味に変ずることができる。また、この舌によって大勢の人々のために法を演説する場合は、すばらしい声を出し、その声が皆の心に入って、皆を喜び楽しませる。この時、天子・天女をはじめ、あらゆる種類の人間・生類がやってきて、その言葉を聞いて供養するであろう。また、仏や菩薩・声聞たちも、その相を見に来られるであろう。
⑤身根清浄の功徳―身は瑠璃のように清らかになって、誰もが彼らに会いたいと願うようになる。この清らかな身体には、全世界のありとあらゆるもの、下は阿鼻地獄から上は有頂天に至るまでの人々、また仏や菩薩たちが説法される姿まで、そこに写し出されるのである。
⑥意根清浄の功徳―清らかな意の功徳によって、法華経のわずか一偈一句を聞いただけでも、限りなく深いその意味を体得することができるであろう。どんな教えが説かれても、その意味を正しく把握して真理に反することはない。もし、彼らが仏教以外の世間一般の書物や政治・経済などの論議を説くならば、それはすべて正しい仏法の真理に適ったものとなろう。
以上が六根清浄の功徳についての内容を要約したものです。
しかし、これら五種法師の修行によって得ることのできる六根清浄の功徳も、過去において仏より既に妙法の下種結縁を受けている熟脱の衆生のための修行、その功徳であり、直ちに末法の本未有善の衆生の観心修行とはなりません。
受持の一行
そこで、大聖人様は末法の修行として受持の一行を説かれたのです・この受持には総体と別体の二意があります。「総体の受持」とは五種の修行をすべて具足する受持のことであります。「別体の受持」とは五種の修行の一つとしての受持です。大聖人様が仰せの受持とは前者の「総体の受持」の意義のことです。
大聖人様は『日女御前御返事』に、
「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち五種の修行を具足するなり」(御書 一三八九頁)
と、妙法受持の一行に五種の修行すべてを含むと仰せです。
また、この下種の妙法には、五種の修行のみならず、三世諸仏の一切の因行と果徳が具足していることから、この妙法を受持することによって自ずとそれらすべての修行と果報が具わるのです。
また『御義口伝』に、
「所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」(同 一七七五頁)
と仰せになり、末法における五種の修行は、ただ南無妙法蓮華経と唱え奉ることであり、その功徳が本然的に六根清浄であると御示しです。
つまり、大聖人様が文底下種の妙法を実体として御図顕あそばされた本門戒壇の大御本尊を受持信行し、妙法を弘めていくことこそが末法における五種法師の妙行なのです。そして、この受持の一行に広大深遠なる功徳、六根清浄の功徳を得ることができるのです。
御法主日如上人猊下は、
「大聖人様の仏法によって人々が六根清浄の果報を得て浄化されれば、必然的に世の中も浄化されてくるわけであります」(大白法 七〇三号)
と御指南されています。
私たちがめざす平和仏国土の実現のためには、全世界の一人ひとりが妙法を受持し、その果報である六根清浄の功徳をもって国土を浄化していく道以外にありません。
したがって私たちは、一人でも多くの人にこの妙法を伝え弘めていく使命があるのです。今月も折伏行に精進してまいりましょう。