南無妙法蓮華経には、すべての教えと行の真理が具わっている・人々の命は必ず、時が至れば生から死へ転変していく。そして多くの人は、この変化に苦しんでいる。これは人々が、生死について苦の一面のみを見ているからである。真実の我々の命は、空理の平等と、仮理の差別相と、そのすべての徳を包含する不思議な中理の当体なのであり、題目はその全体の正理を表している。故に、題目を信じ唱えていくことで、一面のみの狭い見方が、いつの間にか、この身に即して法界全体の理を感じ取り、生死はそのまま涅槃と悟る境界になるのである。
また、我々が常に悩むのは心中の煩悩であるが、一般の人々はその内容も知らず、その種類の意味も知らず、全くの無知である。これは大きく三つに分かれている。有に執われて空を知らない見惑・思惑と、空に執われて仮の無量の因縁相に暗い塵沙惑と、空または仮に執われて法界全体を含む中の理に迷う無明惑である。
聖者も、この煩悩の解決に鉦量の時を費やしている゜故にご」の一つひとつを徹底して消滅することは、現代の人々には絶対に不可能である。
しかし題目は、この三つの惑いを破す空・仮・中の真理の体そのものであるから、ただ本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と題目を唱えるとき、おのずと心中の色々な迷いが浄化されてくる。そこに普賢経の、
「煩悩を断ぜず、五欲(眼・耳・鼻・舌・身にまつわるあらゆる欲望)を離れずして、諸根を浄め、諸罪を滅除することを得」
(法華経610ページ)
いう功徳が生ずるのである。この道は、ただ題目修行の一行にのみ存するのである。