南無妙法蓮革経の大真理は、法界全体に遍満する。したがって、題目を唱える功徳は、何人においても全く等しい。これについて大聖人は、智者も愚者も、
「更に勝劣あるべからず」(松野殿御返事・御書一〇四六ページ)
と教示され、それは、愚者の持つ金も智者の持つ金も、愚者の火も智者の火も、その差別はないのと同じであるという譬えである。たしかに差別はないが、これを使用する場合、智者と愚者の違いが生ずる。智者は、現在と将来に備えて正しく意義ある活用をするが、愚者は、先行きも考えず無駄に費消したり、自他が迷惑するような使い方をする。これを仏法の本義から見れば、法華経の心に背いて唱えるのは愚者でありヽ法華経の順って唱えるのは智者であって、そこに差別が存するのである。
法華経の心によって唱えるとは、仏の大慈悲を深く信じ、自他異体同心にして自行化他、法華経の正義を増長することである。これに対し、法華経の心に背くとは、色々な形で諦法退転の姿があるが、その因となることにつき、法華経留喩品に十四誹膀が説かれている。これは、一に憍慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、 九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、で十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善であり、さらに、
「此の十四誹謗は在家出家に亘るべし、恐るべし恐るべし」(同ページ)
との大聖人の御指南が拝される。法華経を持つ者は仏であり、これを謗ずれば罪を得る。互いの仏界の功徳を尊重し、唱える題目の功徳は「釈尊の御功徳と等しい」と仰せられている。
この誹謗の行為は、右十四誹謗のなかの第一の憍慢、すなわち憍り高ぶる心が基をなすのである。この憍慢が原因となり、他の十三誹謗もことごとく行うようになる。正信の僧俗は、この原因をはっきり見定め、正しい自行化他の題目を行じなければならない。