南無妙法蓮華経と唱えて、しかもその意義は全く知らない人が唱えるだけでも、その義を理解するほどの功徳があるのかとの問いについて、小児が乳を含むのに、その乳の成分や味を知らなくとも身を成長する益があり、また良医の薬も、その訳柄を知らなくとも飲めば病が治癒するように、題目も信じて唱えれば功徳を得るとの大聖人の御指南である。その意義を拝するに、このような巧まずして大功徳を得ることは、我々の身心にとって題目は最上の良薬だからである。良薬である所以は、題目に十界の衆生および国土の一切法界、無限の時間・空間のすべてを含むことより、そのなかの一分である個々の命も、題目の広大な法界の十界互具百界千如一念三千の徳における自由自在の境地を心奥に植えられるからである。
それはまた、妙法蓮華経があらゆる教えとその意義の中心であり、その心はすべてに通じている。妙法蓮華経の心より、方便の形や一分の真実の相が小乗・大乗・権教・実教として顕れたのであるから、その意義で諸経を判ずれば、小乗より大乗は勝れ、権教より実歌は勝れ、迹門より本門、文上本門より文底本因妙の妙法蓮華経が勝れることが明らかとなる。
故に妙楽大師が『釈籤』巻十に、
「法華の文心を出し、諸教の所以を弁ず」(玄義会本下596ページ)
と言われたのは、右の意義を示すのである。大聖人の、
「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ」
(四信五品抄・御書1114ページ)
との御指南も、法華経と仏教全体の根本の意が妙法であるとの理由と拝される。すべての徳が妙法に具わる故に、初心の行者はその心を知らずとも、信じ唱えることにより、自然にその意に合するのである。