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5月度広布唱題会の砌
日如上人猊下お言葉
本日は、五月度の広布唱題会に当たり、皆様には新型コロナウイルス感染症の影響で何かと御不便ななか、信心強盛に参加され、まことに御苦労さまでございます。
さて『聖愚問答抄』を拝しますと、
「人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり。故にま汝 当座は信ずといふとも後日は必ず翻へさん。魔来たり鬼来たるとも騒乱する事なかれ。夫天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ。されば猪の金山を摺り、衆流の海に入り、薪の火を盛んになし、風の求羅をますが如くせば、あに好き事にあらずや」(御書四〇九ページ)
と仰せであります。
そもそも人の心というものは、水の器に従うが如く、移ろいやすく、変わりやすいのであります。したがって、初めは固く決意をしていても、途中で思わぬ障魔に紛動されて、目的を達成せずに終わることがよくあります。
まさにこの御文は、こうした障魔に誑かされず、不退転の信心を貫くように御教示あそばされているのであります。
すなわち「猪と金山」 「衆流と海」「薪と火」 「風と求羅」の譬えを用いられて、いかなる障魔が競い起ころうとも固い決意をもって、いよいよ信心を強盛にしていくように諭されているのであります。
「猪の金山を摺り」とは、猪が金山の光っているのを見て憎み、身体をこすりつけてその輝きを消そうとしますが、身体をこすりつければつけるほど、かえっ金山は輝きを増すように。 「衆流の海に入り」とは、多くの川の水の如き大難が、海の如き法華経の行者に競い起こるように。 「薪の火を盛んになし」とは、火に薪を加えることによって火の勢いがますます盛んになるように。「風の求羅をます」とは、迦羅求羅という虫は身体は微細でありますが、ひとたび風を得れば、その身体は大きくなると言われているように、障魔が競い起きることが、かえって信心を高めていく機縁になると仰せられているのであります。
されば『四条金吾殿御返事』には、
「法華経の行者は火とぐらとの如し。薪と風とは大難の如し。法華経の行者は久遠長寿の如来なり。修行の枝をきられまげられん事疑ひなかるべし。此より後は『此経難持』の四字を暫時もわすれず案じ給ふべし」(同七七六ページ)
仰せられているのであります。
すなわち、法華経の行者は、信心が進めば様々な難に値うことは必定であります。しかし、障魔が競い起こることによって、かえって信心を強盛にしていく絶好の転機になると仰せられているのであります。
つまり、たとえいかに不退転の決意を固めていても、いざ現実に障魔が競い起これば、動転して驚き慌てる人が多いのであり、それを乗りきるためには強盛な信心を貫き通す以外にないことを、先程の四つの譬えをもって教えられているのであります。
本年、宗門は「今こそ折伏の時」の標語のもとに、僧俗一致して前進をしておりますが、その行く手にはあらゆる障魔が競い起こることは必定であります。
しかし、ただいまの御教示の如く、魔が 競い起きた時こそ、信心決定の絶好の機会と捉え、一人ひとりが妙法受持の大功徳を確信して、決然と魔と対決し、粉砕していくことが大事であります。
所詮、いかなるも仏様には絶対に勝てないのでありますから、大御本尊様への絶対信をもって、いよいよ信心強盛に唱題に励み、折伏を行じ、御宝前にお誓い申し上げました本年度の折伏誓願を必
ず達成されますよう心からお祈り申し上げ、本日の挨拶と致します。
良医病子
教学用語
良医病子の譬えとは、諸々の苦悩に喘ぐ衆生とそれを救済する仏の
化導を、病の子供とそれを治療する父の良医に譬えたもので、法華経
『如来寿量品第十六』に説かれています。
この譬喩は法華経の七譬の一つで、「良医治子の譬え」「良医の譬
え」ともいわれます。
私たちが朝夕に読誦する『寿量品』の「譬如良医。智慧聡達」(法
華経 435㌻)以降、自我偈の前までにこの譬喩が説かれており、この
部分を『寿量品』の「良医治子譬段」といいます。
法華経は一切衆生救済の大良藥
仏教では、衆生の苦を病、衆生を救う仏を良医、そして仏の教法を
良藥に譬えます。
仏は衆生の機根に応じて様々な説法をしたのですが、天台四教儀に
は、教えの内容である化法の四教(蔵・通・別・円)は薬味(薬の内
容)であり、説法の方法である化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)は
藥法(薬の調合方法)であるとし、法華以前に説かれた爾前経は薬法
・薬味において法華経に劣り、法華経のみがすべての病を救う最高の
大良藥であると示されています。
譬えの概要
聡明で薬の処方に精通し、百人にも及ぶ子供をもつ良医がいました。
ある時、良医が所用で遠方へ出かけている間に、子供たちが誤って
毒藥を服して苦しんでいました。悶絶する子供の中には、苦しみに堪
えかねて本心を失う者までいました。
良医が帰宅すると、子供たちは大いに喜んで、毒病を治して欲しい
と願い出ます。良医は薬を調合し、「此の大良藥は、色香美味、皆悉
く具足せり。汝等服すべし。速やかに苦悩を除いて、復衆の患無けん」
(法華経 436㌻) と言って、子供たちに色形、香り、味のいずれも
すばらしい大良藥を与えました。すると、本心が残っていた子供はす
ぐに良藥を服して快復しましたが、本心を失った子供は、毒気のせい
で良藥を良藥でないと思い込み、服用しませんでした。
未だに苦しむ子供を不憫に思った良医は、薬を飲ませようと、方便
を設けます。すなわち、子供に、「自分は老いて死期が近い。この大
良藥を、今、ここに留め置いておくから、お前たちは、これを取って
必ず服用しなさい(趣意)」(法華経 437㌻)
と告げて、家を出て、他国に至ってから使者を遣わし、父は死んだと
子供たちに告げさせたのです。
訃報を聞いた子供たちは、
「もし父が生きていたら私共を憐れみ、救ってくれるが、今やその
父は遠く他国で亡くなってしまった。私共は孤独で頼るところがない
(趣意)」(法華経 437㌻)
と深い悲しみに嘆きました。そして父の慈愛と力を思い起こした子供
たちは、ついに本心を取り戻して大良藥を服し、快復したのです。
その後、良医は帰宅したのでした。
三世常住の化導
この譬えでは、良医とは仏、毒薬を服した子供は一切衆生に譬えら
れます。
まず、良医が遠く他国へ出かけることは、仏が過去世に、様々な名
前で出現して衆生を導いていたことを指します。(過去益物)
次に、良医が一度家に帰って大良藥を子供に与えることは、仏が娑婆
世界に出現して毒病に喘ぐ衆生に法華経を説くという現在の化導に当
たります。(現在益物)
また、本心を失って良薬を服そうとしない子を治療しようと、良医
が他国に出かけ使者を遣わし亡くなったと告げさせたことは、仏が入
滅することを現わします。すなわち、仏の存在に慣れてしまい、仏法
を尊重しない衆生を覚醒させるため、常住ではあるけれども、敢えて
滅に非ざる滅(非滅現滅)を示されるのです。
最後に、良医が帰宅することは、方便による滅の相を現わしながら
も、未来永劫に亘り衆生を教化する様相を表わしています。(未来益
物)このように良医病子の譬えとは、仏が久遠以来、実は常住であり
ながら、出現したり入滅したりして、大慈悲をもって衆生を導き利益
してきたことを表わす譬えなのです。
末法における良医とは日蓮大聖人
中国の天台大師は、法華文句に良医(衆生を教化する宗教者)に十
種があることを御教示です。
成仏どころか、かえって病を悪化させ、時に死に至ったり、苦痛を
伴うだけで何の効果も得られない外道の師。部分的な治療しかできな
い上に苦痛を伴う小乗の師。苦痛を与えないが大病は治せない権大乗
の師。大病を治しても完全な健康体にまでは快復させることができな
い大乗の師などです。
そして、最後の良医は法華本門に説かれる如来であり、一切の病を
治し、病以前より優れた体にまで快復させる真実の師であります。
日蓮大聖人は『寿量品』の大良藥について『御義口伝』に、
「題目の五字に一法として具足せずと云う事なし。若し服する者は
速除苦悩なり。されば妙法の大良藥を服する者は貪瞋痴の三毒の煩悩
の病患を除くなり。(中略)今日蓮等の類 南無妙法蓮華経と唱へ奉
るは大良藥の本主なり」(御書1768㌻)
と説かれています。
つまり、南無妙法蓮華経の題目こそが、あらゆる薬の効能をことごと
く具足し、衆生の貪瞋痴の三毒を治癒する大良藥であり、日蓮大聖人
こそが、大良藥の本主、すなわち末法の良医であると示されるのです。
大良藥たる本門戒壇の大御本尊に帰依すべし
大聖人は建長五(1253)年の宗旨建立以来、法華経に予証される法
難を超克し、大慈大悲の上から、邪教の害毒に喘ぐ衆生の救済に心を
砕かれました。そして、弘安二(1279)年十月十二日、出世の本懐で
ある本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされ、末法万年に亘る信行の
対境を留め置かれたのです。
この大御本尊について、総本山第二十六世日寛上人は、
「寿量品に云わく『是の好き良藥を今留めて此に在く、汝取って服
すべし。差えじと憂うること勿れ』等云云。応に知るべし、此の文正
しく三大秘法を明かすなり。所謂『是好良薬』は即ち是れ本門の本尊
なり」(六巻抄 94㌻)
と仰せられ、良医病子の譬えにおける色香美味の大良藥とは、本門の
本尊であることを御教示です。
譬えの子供たちが毒気によって本心を失っていたように、末法の衆
生は間違った思想・宗教によって、大良藥たる御本尊を前にしても、
それを受持することができずにいます。
しかし、大聖人が教示されるように、私たちの命は三世永遠に亘る
のであり、そのことを自覚して、御本尊を受持し、御題目を唱えてい
くこと以外に真実の幸せはないのです。
私たちは、正法の功徳に浴する有り難さを人々に伝え、大御本尊の
もとへ導いてまいりましょう。