極楽寺良観への御状 (十一通御書)
文永 五年 十月 十一日 四七歳
西戎大蒙古国簡牒の事に就いて鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候。日蓮去ぬる文応元年の比、勘へ申せし立正安国論の如く、毫末計りも之に相違せず候。此の事如何。長老忍性速やかに嘲哢の心を翻し早く日蓮房に帰せしめたまふべし。若し然らずんば「人間を軽賤する者、白衣の与に法を説く」の失脱れ難きか。依法不依人とは如来の金言なり。良観上人の住処を法華経に説きて云はく「或は阿練若に有り、納衣にして空閑に在り」と。阿練若は無事と翻ず。争でか日蓮を讒奏するの条、住処と相違せり。併ら三学に似たる矯賊の聖人なり。僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定せり。聊も先非を悔いなば日蓮に帰すべし。此の趣き鎌倉殿を始め奉り、建長寺等其の他へ披露せしめ候。
所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず。即ち三蔵浅近の法を以て、諸経中王の法華に向かふは、江河と大海と華山と妙高との勝劣の如くならん。蒙古国調伏の秘法は定めて御存知有るべく候か。日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国退治の大将たり。「於一切衆生中、亦為第一」とは是なり。文言端だ多くして理を尽くす能はず。併ら省略せしめ候。恐々謹言。
文永五年戊辰十月十一日 日 蓮 花押
謹上 極楽寺長老良観上人御所