御輿振御書 文永十年 三月 一日 五二歳
御文並びに御輿振の日記給び候ひぬ。
悦び入って候。
中堂炎上の事其の義に候か。
山門破滅の期其の節に候か。
此等も其の故無きに非ず。
天竺には祇園精舎・頭摩寺、漢土には天台山、正像二千年の内に以て滅尽せり。
今末法に当たって日本国計りに叡山有り。三千界の中に但此の処のみ有るか。定めて悪魔一跡に嫉みを留むるか。
小乗権教の輩も之を妬むか。
随って禅僧・律僧・念仏者王臣に之を訴へ、三千人の大衆は我が山破滅の根源とも知らず、師檀共に破国・破仏の因縁に迷へり。
但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の「後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」の文か。
伝教大師の「正像稍過ぎ已はって末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり」の釈なり。
滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。
山門繁昌の為是くの如き留難を起こすか。
事々紙上に尽くし難し。
早々見参を期す。
謹言。
三月一日 日 蓮 花押
御返事