念仏者臨終現悪相御書
文永三年 四五歳
文はとかれたれども、実には諸行は往生せずと料簡したりけり。この二義世間にひろまりけるほどに、法華経等は一部八巻よむもよだけし。真言の観念は大事なり。一念は但南無阿弥陀仏と申せばやすし。させる功労をも入らざる故に、在家の諸人は一向称名念仏になりぬ。自然に法然が義つをりて多勢になるほどに、をゝぜいにをとされて、法華経・真言等を行じつる人々も、自義をすてゝ法然が義をならいまねび、心よせにをもい、久修聖行の法華経等をすてゝ三万六万等の念仏者になりぬ。結句はことに天台真言の人々、法華経をすてゝ念仏になる証人となれるなり。ここに第一の不思議あり。法然が一類の一向の念仏者法然・隆観・上光・善恵・南無・薩生等或は七日・二七日、無記にて死ぬ者もあり、或は悪瘡、或は血をはき、或は遍身にあつきあせをながし、総じて法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし。又一向専修の念仏者をもちうる在