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あとの祭りにならないために!  神社神道

諸宗教破折2
8/1/2017

夏から秋にかけては、いわゆる祭りのシーズン。
京都の祇園祭、大阪の天神祭、東京の神田祭、青森のねぶた、高知のよさこい等々、日本各地で、祭りや縁日が催される。

祭礼参加で悪鬼に加勢!?
有名なものは夏に多いが、今や、のべつ幕なし、一年を通じてどこかで何かしらの祭りが催されている。
公園やテーマパークで開催される桜祭やチューリップ祭など、宗教とは全く関係のないものがある一方、中世に伝染病を封ずるために行われるようになった祭礼や、神に戦勝祈願したのが由来の祭りも。
 また、その土地その土地の農業や漁業、林業といった生活環境、風俗習慣が起源のものもある。
こういった行事に人々の祈りが入り込むのは自然なことで、時代の移り変わりと共に、神社神道の祭礼と結びついたのだろう。
日蓮大聖人は、

「此の故に諸天妙法を聞くことを得ず。法味を嘗(な)めざれば威光勢力(せいりき)有ること無く、四天王並びに眷属(けんぞく)此の国を捨て、日本国守護の善神も捨離し已(お)はんぬ。」(御書 一四四㌻)

と、日本国守護の諸天善神は元来、神社を住処(すみか)とし、妙法の法味を得てその力を発揮するが、国土に謗法(ほうぼう)が充満すれば法味を味わえなくなり、諸天は神社を捨てて天上への上ってしまう、と御指南されている。
そして、空き家となった社(やしろ)に、代わりに悪鬼魔神が住み着くのである!
そんな場所へ詣(もう)でたり祭礼に関われば、謗法与同(よどう)となり、災難と不幸に見舞われてしまう。

伝統と文化に置き換える無認識
祭りに関わる人々は言う。

「地域の付き合いなので」
「この伝統行事を絶やしてはならない」
「地域のコミュニケーションに一役も二役も買っているんですよ」

と。
いわば信仰心からではなく、祭りを歴史や伝統文化ととらえ、地域社会のために
「よかれ」
と思い、打ち込んでいたりもする。

「日頃のストレスも解消できる」
「血が騒ぐ、大好きだ」

という人も。確かに、大勢が集まることから生まれるパワーや華やかさには、日常にない特別な魅力があるだろう。が、祭りに参加したり神輿(みこし)を担いでも、諸天善神は何も喜ばない。

悪鬼魔神の片棒
それどころか、魔の神通力によって魅力を感じ、楽しい宴(うたげ)のひと時を過ごした後は、知ると知らざるとに関わらず、悪鬼魔神の片棒を担いでしまったという業が、その人の命に刻まれる。喜ぶのは魔神だ。
とは言っても、地域に寝付いた祭りから、深く関わってきた人たちに手を引かせることは至難の業(わざ)だ。
いかに正論を挙(あ)げ理路線是と邪義を破ろうと、

「判った、もう祭りはやめるよ」

とは、ならないだろう。

大聖人様は『諌暁八幡抄』に、
「法華経の第五に云はく「諸天、昼夜に常に法の為の故に、而も之を衛護す」文。経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人を
ば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべしと見えたり。」(同 一五四三㌻)
と仰せられ、また『御義口伝』には、

「末法に於て法華を行ずる者をば諸天守護之有るべし。常為法故の法とは南無妙法蓮華経是なり」(同 一七六三㌻)

と示されている。妙法を受持信行する者に、諸天の加護が降り注(そそ)ぐとの仰せである。
この筋道をはっきりと示すのが折伏となる。

身口意(しんくい)の謗法
総本山第二十六世日寛上人は『如説修行抄筆記』に、
「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠(じゅず)を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり」(御書文段 六0八㌻)

と御教示である。三世に亘(わた)る命の問題である。手を拱(こまね)いて傍観する場合ではない。
基本はもちろん、縁のある近隣の折伏。さらに、地域の行事が宗教と無関係になるように地道に訴えるなど、できることは、ある。

(大白法第九六一号 平成二十九年七月十六日)

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