法華経について(全34)
12大白法 平成26年10月1日刊(第894号)より転載
『五百弟子受記品第八』
前回・前々回は、迹門正宗分で広開三顕一が明かされる三周の説法中、因縁説周の正説段に当たる『化城喩品第七』について学びました。今回は因縁説周の授記段のうち、はじめの『五百弟子受記品第八』について学びます。
当品には、法説周・譬説周と同じく因縁説周の領解と述成も説かれますが、簡略であり、総科として概略を拝するときには、前回掲載の科段に示されるように授記段として一つに括られます。
品名の「五百弟子」とは、当品において釈尊は、下根の千二百人の声聞に総じて記別を与えましたが、そのうち五百人に別して記別を与え、歓喜した五百人によって譬えが述べられる説相によります。また「受記」とは、仏様から記別を受ける衆生の立場を表わすため「受記」と言い、仏様の立場から見ると記別を授けるため「授記」となります。
普明如来の記別
最初に下根の声聞を代表して、富楼那の黙然領解が説かれます。先の『化城喩品第七』で明かされた三千塵点劫以来の釈尊との因縁を聴き、過去以来の富楼那の本願を知るのは釈尊のみであると悟り、言葉を発することなく黙然として領解を表わしたのです。
それに対して釈尊は、富楼那が三世に亘って説法第一であることを讃歎され、本地は大乗の菩薩であって方便力により声聞の姿を現じていること、その過去の修因行満を明かし、法明如来という記別を授けられました。
次に釈尊は、総じて富楼那以外の千二百人の声聞に授記しますが、別して釈尊の初転法輪を聴聞して弟子となった五比丘の一人である阿若憍陳如や周陀(須梨槃特)をはじめとする五百人の声聞に、普明如来の同一名号による記別を授けられ、次いで摩訶迦葉に、同座していない声聞への記別を託したことにより、千二百人の声聞への授記が整ったのです。
このうち記別を得た五百人の声聞は、歓喜踊躍して、低い教えに執着し、小智をもって満足した過去の無智を自省して仏恩の深重を得解し、「貧人繋珠の譬え」をもって妙法の領解を述べ、当品は結ばれています。
なお因縁説周の授記段は、次の『授学無学人記品第九』へと続いています。
貧人繋珠の譬え
「貧人繋珠の譬え」は、「酔酒繋珠の譬え」や「衣裏繋珠の譬え」、「衣裏珠の譬え」とも称されます。
一人の貧しい男が、裕福な親友の家を訪れたときのことです。
男はその家で酒に酔い眠り込んでしまいました。親友は官事で外出しなければならず、無価(値段が付けられないほど高価)の宝珠を男の衣服の裏に縫い込んで出かけましたが、酔い臥していた男は、このことに気付きませんでした。
酔いから醒めて起き上がった男は、流浪して他国に至り、衣食を得るために仕事を求めたましたが艱難辛苦の連続でした。そのため、少量であれ得るものがあると満足し、それ以上を求めませんでした。
時が経ち、男は再び親友と出会いました。親友は、男の変わらぬ姿を見て次のように言いました。
「どうして君は、衣食を得るためにそのような窮乏の状態になっているのか。私は昔、君が安楽な生活を送り、思い通りに過ごせるようにと、あの時、無価の宝珠を君の衣服の裏に縫い込んだのだ。その宝珠は、今もここにある。君がこのことを知らずに、自活を求めて苦悩しているのは、実に癡かなことだ。今すぐに、この宝珠を用いて望む通りに必要なものを取り引きしなさい。そうすれば、窮乏することはなくなり、常に思い通りに過ごせるであろう」
こうして無価の宝珠に気付いた男は歓喜し、ようやく安楽な生活を手に入れたのです。
以上が、「貧人繋珠の譬え」についての概略です。
宝珠とは
この譬えの中で、男とは釈尊在世の二乗、親友とは釈尊を譬えられており、中国の天台大師は『法華文句』に、
「譬如有人とは即ち二乗の人なり。親友とは昔日の第十六王子なり。家は即ち大乗教を家と為すなり」(法華文句記会本中 五九五頁)
と、示されています。『化城喩品』で過去三千塵点劫における釈尊と在世の衆生の因縁が明かされましたが、衣服の裏に宝珠を縫い込むことは、法華覆講(大通覆講)による妙法の下種結縁に当たります。
妙法の下種を忘れ、阿羅漢の悟りに満足する愚かな衆生は、三千塵点劫の長きに亘って小乗教に執着し、苦しみの世界に沈淪していました。しかし、仏様の教化によって、ついに過去の妙法下種を覚知し小乗教の酔いから醒め、実大乗教に基づいて仏道を志す故に千二百人の声聞は未来の成仏が保証されたのです。
真実の大乗教とは、天台大師が同じく『法華文句』に、
「無価宝珠とは、一乗実相・真如智宝なり」(同 五九六頁)
と、釈しております。宝珠として譬えられるのは方便の爾前経に対する一乗真実の法華円教です。釈尊結縁の熟脱の衆生は、この法華経に至って初めて未来に得脱することが明らかとなったのです。
以上は、未だ迹門正宗分における説法であり、『如来寿量品第十六』に至って釈尊の本地と久遠五百塵点劫が明かされる以前ではありますが、インド応誕の釈尊の化導が、過去に下種を受けた本已有善の衆生に対する熟脱の教法に依ることが拝されます。
対して私たちは、本未有善の悪世末法の衆生です。
日蓮大聖人は『御義口伝』に、
「此の品には無価の宝珠を衣裏に繋くる事を説くなり。所詮日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、一乗妙法の智宝を信受するなり。信心を以て衣裏にかくと云ふなり」(御書 一七四七頁)
と、また『観心本尊抄』に、
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(同 六六二頁)
と、仰せです。末法の衆生にとって、仏様とは久遠元初即末法の御本仏日蓮大聖人、宝珠とは本因下種の妙法に他なりません。大聖人が、即身成仏の宝珠として大慈大悲により建立あそばされた、本門戒壇の大御本尊を受持信行することこそ肝要となります。
大聖人の御遺命たる広布実現こそが衆生済度の直道であると確信し、「貧人繋珠の譬え」の中で親友が貧しい男を救ったように、他をも救わんとする折伏行の実践に励み、まずは明年の御命題貫徹に向けていよいよ精進してまいりましょう。