法華経について(全34)
31大白法 平成28年10月1日刊(第942号)より転載
『陀羅尼品第二十六』
初めに
前回までの『薬王品』『妙音品』『観音品』で、それぞれ釈尊滅後に法華経を弘める功徳が説かれました。
しかし悪世に法を弘める時、弘通者の前には様々な障害が立ちはだかります。
そこで弘通者を守るために、当『陀羅尼品』で諸菩薩や諸天善神により陀羅尼(力のある言葉)が説かれるのです。
そして、当品では有名な鬼子母神や十羅刹女、さらにその一人である皐諦女が登場し、法華経の行者を守護することを誓います。
注意しなくてはならないのは、御本尊様に御題目を唱えることこそが、諸菩薩や諸天善神に守られる行であるということです。他門のように鬼子母神を祀ることは誤りなのです。
それを踏まえた上で当品の内容を述べることといたしましょう。
陀羅尼品第二十六
前品の説法が終わると、薬王菩薩が立ち上がり、釈尊を礼拝して、
「世尊よ。よく法華経を信じ持つ男女の信徒が、法華経を読誦し、その深い内容を理解し、あるいは経巻を書写するならば、どれほどの功徳が得られるでしょうか」
とお伺いしました。
釈尊はこの質問に対して、
「深く信仰する男性や女性が、八百万億那由他ものガンジス河流域の砂数もの仏を供養したとしよう。薬王菩薩よ。その得られた功徳は多いであろうか少ないであろうか」
ど逆に問いかけられました。薬王昔薩が、
「はい。甚だしく多い功徳であると思います」
と答えると、釈尊は、
「けれども、そのように信仰篤き者が法華経のわずか一偈一句でも受持し信行するならば、その受持信行の功徳のほうがとてつもなく多いのである」
と仰せになりました。
それを聞いた薬王菩薩は、
「世尊。私は、法華経を説き弘める者に陀羅尼の呪文を与え、その行者を守護いたします」
と申し上げ、続いて、「アニ マニ マネイ……」と陀羅尼を唱え、
「世尊。この陀羅尼は極めて多くの仏様が説かれたものです。もし法華経弘通の法師に迫害を加える者がいたならば、その者は諸の仏様を迫害することになるのです」
と申し上げました。釈尊は、薬王菩薩を褒めて、
「善いかな、善いかな、薬王よ。そなたは法華経の行者を慈しんで守護するために陀羅尼を説いた。多くの衆生がその利益を受けることであろう」
とおっしゃいました。
するとその時に、勇施菩薩が釈尊に向かって次のように申し上げます。
「世尊。私もまた法華経を受持する者を守護するために陀羅尼を説きます。
もしその行者がこの陀羅尼を得たならば、夜叉や羅刹などの悪鬼が悪さをしようと試みようとも、その隙を得ることができないでしょう」
そして、「ザレイ マカザレイ……」と陀羅尼を説き、この陀羅尼が諸仏の説いたものであることを申し上げました。
続いて世間を守護する善神の一人である毘沙門天王も、釈尊に法華経を弘める者を守護するために陀羅尼を説くと申し上げ、「アリナリ……」と示して、
「世尊。この陀羅尼をもって、私は法華経の行者を守護いたします。その行者を私自ら守護し、その周辺には哀しみや憂いがないように努めます」
とお誓い申し上げました。
すると次に持国天王が、仏法を守護する八部衆の乾闥婆たちをしたがえて釈尊の御前に進み出ると、合掌して申し上げました。
「私もまた陀羅尼をもって、法華経を信仰する者を守護いたします」
と申し上げ、「アギャネイ ギャネイ……」と陀羅尼を示した後、
「世尊よ。この陀羅尼もまた多くの諸仏が説かれたものであり、行者に迫害を与える者はその多くの仏に迫害を与える者となりましょう」
と申し上げました。
このように薬王菩薩、勇施菩薩、毘沙門天、持国天が陀羅尼を説いた後に、十人の羅刹女と鬼子母神が子供と従者を引き連れて、釈尊の御前に出てきました。そして、一同に声を合わせて、
「世尊。私たちもまた、法華経を受持し、読誦する者を守護し、その行者のその憂いや患いを取り除きたいと思います。
もしその行者の隙につけ込んで害を加えようとする者がいても、その便りを得させることはありません」
と誓願を申し上げ、「イテイビ イテイビン……」と陀羅尼を示し、
「種々の憂いが私の頭上を踏み登ったとしても、けっして法華経の行者を悩ましてはなりません。
たとえ夜叉や羅刹などの悪鬼であろうと悩ましてはなりません。
また熱病であろうと、男の姿、女の姿、童子、童女の姿をする魔性の者であろうと、夢の中であっても、けっして法華経の行者を悩ましてはなりません」
と述べ、さらに偈という詩句に託して、
「もし私たちの陀羅尼にしたがわずに、法華経の行者を悩ますならば、その者の頭は七つに破れて、あたかも阿梨樹の枝のようになるでしょう。
父母を殺す逆罪のように、ゴマ油を得るために多くの命を絶つ罪のように、秤の目方を偽って人を欺く罪や提婆達多が教団を分裂させようとした罪のように、この法華経の行者に危害を加えようとする者は、これらと同様の罪を犯すことになるのです」
と述べました。そして再び釈尊に、
「世尊。私たちもまた、自らこの身命を賭して法華経の行者を守り、安らかならしめ、様々な憂いや患いから離れ、多くの毒薬すらその行者を害することがないようにいたします」
と申し上げました。
羅刹女たちの言葉を聞いた釈尊は、次のように仰せになりました。
「善きかな、善きかな。そなたたちが、ただ法華経の御名である題目を受持する者を守護することであれ、その福徳は計り知れない。
ましてや、法華経を身口意三業共に受持し、様々に供養する者を守護する、その福徳はなおのこと計り知ることができないほどであろう」
そして、釈尊は羅刹女の一人皐諦女に、
「皐諦女よ。あなたたちは一族郎党と共に、法華経の行者を守護しなさい」
と申し渡されました。
最後に、この陀羅尼を聞いた多くの人の功徳が説かれ、当品の説法は終わります。
陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり
以上のように当品では諸菩薩や諸天善神が、法華経の行者を守護する陀羅尼を示しました。
しかし、末法の今、この陀羅尼を唱えたり、鬼子母神や皐諦女等の十羅刹女を本尊として崇めてはいけません。
その理由は、大聖人様が『上野殿御返事』に、
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書 一二一九㌻)
と仰せられ、また『御義口伝』に、
「陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり」(同 一七九〇㌻)
と仰せられているように、末法今時は南無妙法蓮華経の御本尊様のほかに法華経の法体はなく、また御本尊様を受持する南無妙法蓮華経の題目以外に陀羅尼はないからです。
言葉を換えて言えば、私たちは、この南無妙法蓮華経の御本尊様を一途に、正直に信じて御題目を唱えることにより、当品で説かれる菩薩や善神たちの守護を受けることができるのです。
一方で、当品では有名な、
「頭破れて七分に作ること阿梨樹の枝の如くならん(頭破作七分 如阿梨樹枝)」(法華経 五八〇㌻)
と、正法を誹謗する者の罪がたいへん厳しく説かれています。
この「頭破作七分」の経文のように、正法を謗る行為が罰という形で表われるなど、相手の状況が折伏の後で変わることもあります。
このような意味からも私たちは、一度の折伏で諦めるのではなく、信心の生活の上でこれらの利益と罰をしっかりと見定めて、継続して話をしていくことが大切です。
難について
当品では諸天善神が法華経の行者を守護することをお誓いしていますが、現実にはこの信仰をやめさせようとする難が起きることは実に多いことです。親が、家族が、仲の良い友人が、また職場の知人が信仰に反対したりします。
大聖人様の時代にも、竜の口法難の際に退転していった人々が多くいました。そうした状況の中で、『開目抄』では、
「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事をまことの時はわするゝなるべし」(御書 五七四㌻)
と仰せられています。
この御金言のように、どのような難が起ころうとも、御本尊様をいささかも疑うことなく、しっかり信じて行じていくことが大切なのです。特に「まことの時」とありますように、平生は信じているようでも、いざ本当に信じ切らなければならない時に、御本尊様を信じ抜くことがいかに大切であるかを仰せられています。
いずれにしろ私たちは、大聖人様が、
「比の曼荼羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたはぶるともつゝがあるべからず。遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかゝるべきなり」(経王殿御返事 六八五㌻)
と仰せられているように、御本尊様を信じて御題目を唱えていくところに、諸天の加護を得て、罪障を消滅し、問題を解決していく功徳を戴くことができるのです。
さあ誓願完遂をめざして、御題目を唱え、いよいよ精進してまいりましょう。