光明
『法蓮抄』の一節。
「竹の節を一つ破りぬれば、余の節亦破るが如し」(御書 815ページ)
竹を縦に割ると、上下が真っ直ぐ割れることから、俗に気性がさっぱりして、陰険さや曲がったところがない人
を「竹を割ったよう」という。
おもしろいのは、一本の竹に多くの節はあれ、一つの節を縦に割れば、残りの節もすべて同時に割れることであ
る。
このことを大聖人様は、法華経の持つ秘術を端的に表わす譬え、として用いられた。
法界のあらゆる衆生や世界は、宿業の因縁によって多種多様に分別できよう。
それらを括ると、輪廻転生を繰り返す、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道と、声聞、縁覚、意薩、の
四聖を加えた十界に収まる。
縦に見れば、極悪極苦の地獄から極善最上の仏界まで、ただ一本の竹のようである。
さて衆生が仏道を志しても、小乗教では声間、縁覚までで、けっして成仏はできない。
華厳経や阿弥陀経、大日経、般若経等の権大乗教では、仏道の低い境地から順に転迷開悟し、無量の生死を累ね、ようやく仏の悟りに至ると説く。
しかし法華経は違う。 十界の衆生が、今、生きる世界で、今の身のまま成仏できる、という秘術を顕わした。端的に言えば、妙法の一法に他の一切法を具え、一切を妙法の仏、妙法の国士に活現する力が備わる、ということである。
故に、地獄界の人は地獄のまま、人間界は凡夫のまま、本因下種の妙法御本尊を信受し、題目を唱える受持正行の
一行によって、十界がことごとく即身成仏を遂げられる。そればかりではない。一即一切、一念三千だからこそ、地
獄の一人でも成仏すれば、他の十界すべてが、等しく同時に成仏できるのである。
このことを、竹の節が一つ割れれば、上下すべての節が同時に割れるとの雪えをもって御教示されたのである。
ならば、この大法を自ら実践し、さらに破竹の勢いで折伏化他に励むしかない。 (羅)