〔参照〕『大白法』(H29/11/16 8面)
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【キリスト教の宗教行事】
昨今の日本人の宗教行事に対する軽率ぶりは、大いに憂慮(ゆうりょ)すべきものがある。その典型がクリスマスに表れている。毎年十二月になると、街はクリスマス一色になる。
各地でツリーが並び、きらびやかなイルミネーションが飾られ、様々なイベントが開催される。
また、サンタクロースからのプレゼントを願ったり、ケーキを囲んで「メリークリスマス!」などと声を上げたりすることが、すっかり定着してしまった感がある。
そもそもクリスマスとは「キリストのミサ」という意で、イエス・キリストが誕生されたとする十二月二十五日(ただし正確な誕生日は不明)に、キリスト教徒が教会の儀式に参加し、キリストに感謝の祈りを捧げるという宗教行事。
ちなみに、近年の欧米社会では「メリークリスマス(楽しいクリスマスを)」との言葉は気楽に使用してはいけないらしい。
その理由は、クリスマスが宗教行事である以上、キリスト教徒でない人々に対して、キリストの祝い事を押し付けるのはよくないという考え方が広まったからだという。
それに比べて今の日本人はどうだろう。
クリスマスを”楽しいイベント”ぐらいしか認識していない。
物事の意味や本質を深く考えず、ただ、”楽しいから”という理由で、お祭り騒ぎをして浮かれているだけである。
◆金儲けの道具
日本でクリスマスが庶民に広まり始めたのは明治に入ってからという。
では、どうしてこれほど浸透してしまったのか。
その発端は”商売”のようだ。
我が国においてクリスマスは、本来の宗教儀式の面よりも、楽しいイベントとして広められた。
そこには金儲けを狙う、企業の巧みな宣伝があった。
人々はその思惑に乗せられて、様々な関連商品を購買する。さらに、過熱する年末商戦と相まってエスカレートし、今日の如き有り様となった。
つまり日本のクリスマスは、企業の商業戦略に踊らされ蔓延(まんえん)してしまった、悪しき産物と評することができよう。
どんなに広く行われていても、紛れもなく宗教行事である。仏教の厳正なる眼(まなこ)から見れば、けっして見過ごすことのできない、謗法の所業なのだ。
たとえ人々に宗教的な行事だとの意識がないにせよ、クリスマスを容認する何らかの行動があるとすれば、それは知らず知らずのうちに、謗法に荷担していることになる。
◆与同罪(よどうざい)恐るべし
日蓮正宗信徒がクリスマスの諸行事に積極的に参加する道理はありえないが、問題はここからだ。
日蓮大聖人は『主君耳入此法門免与同罪事』に、
「心は日蓮に同意なれども身は別なれば、与同罪のがれがたきの御事に候」(御書 七四四㌻)
と仰せである。
クリスマスの悪弊(あくへい)に流される周囲の人々に対し、見て見ぬふりをしていないだろうか。
相手が謗法によって苦果を受けると知りながら、それを放置することは与同罪に当たる。
大聖人は、また『曾谷殿御返事』に、
「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(同 一〇四〇㌻)
と、折伏を行ずることで初めて与同罪を免(まぬが)れ、功徳を積んでいくことができると御示しである。
すなわち、正法を受持する我々は、クリスマスの本来の意味を知らず、知らぬ間に謗法の害毒を受けている人々に、救いの手を差し伸べるべきなのだ。
今回取り上げたクリスマスの行事に限らず、日本の人々はあまりにも宗教に無知だと痛感することが多々ある。
たとえ無知であっても、法を犯せば罰せられるように、知らなかったでは済まされないのが謗法の怖さ。
また、たとえ正しい信仰をしていたとしても、間違った宗教の行事に関われば、功徳はおろか、かえって悪業を積むことになる。今こそ、宗教の正邪についうて語り、是非に迷う人々を折伏していく好機である。
(大白法 平成29年11月16日号より)