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帰依の対象は組織⁉―創価学会

創価学会
 創価学会員が使用する『勤行要典』の「御祈念文」には、
「一、御本尊への報恩感謝法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊に南無し、報恩感謝申し上げます。末法の御本仏・日蓮大聖人に南無し、報恩感謝申し上げます。 日興上人に南無し、報恩感謝申し上げます」
「御本尊への報恩感謝」とあるその内容は、仏・法・僧への三供養を言いたいようである。熱心な会員はきっと、毎日の勤行で僧宝である「日興上人に南無(帰命・帰依の意)し」ているに違いない。
 ところが、『創価学会教学要綱』(以下、要綱)では、
「現代において『南無妙法蓮華経』を正しく伝持する教団である創価学会が、僧宝に当たる」(要綱 一五九)
と、創価学会という組織が僧宝であるとしている。
 教義上では組織を僧宝としながらも、昔からの会員に対する配慮なのか、毎日の勤行では日興上人を僧宝と立てているのだから、支離滅裂にもほどがある。
過去の指導
 過去に池田大作は、
「『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる」(聖教新聞 昭和五十三年二月二十六日付)
と発言し、この内容を受け学会本部も、
「『僧宝』とは、正宗においては第二祖日興上人のことであり、また会長(池田)も発言しているごとく、唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられる。したがって、この正宗教義の根本となる僧宝と、信心実践面での和合僧ということについては、絶対に混同するようなことがあってはならない。
 また、広義においても、学会を『僧宝』という言い方はしてはならない」(同 昭和五十三年六月三十日付)
との見解を示していた。
 つまり、僧宝とは第二祖日興上人をはじめとする血脈付法の御歴代上人を指すのであり、単なる信仰実践の仲間である和合僧(創価学会)とは厳格に区別をし、学会を「僧宝」とは言わないことを、自ら表明していたのである。
創価学会が僧宝?
 宗教法人設立にあたって三宝を守ると誓ったはずの創価学会は、三宝を守るどころか三宝を破壊する団体へと成り下がった。さらに、その三宝破壊の団体は、我こそが三宝の一端であると、その僧宝に創価学会を据え置いたのである。
 宗門支配に失敗した学会は、血脈付法の御法主上人を僧宝とする宗門に対して教義 「法主本仏」「法主信仰」であると罵詈雑言の限りを尽くしてきたが、今度は絶対 我々こそが僧宝である、と言い出す始末。
 自分たちが僧宝であると、 主張するならば、いっそのこと、その御祈念文」
「創価学会に南無し、報恩感謝申し上げます」とすべきであろう。
清浄な和合僧団
「信仰実践の上で出家・在家の区別を認めない日蓮大聖人の仏法」(要綱一五九)
という創価学会の己義は、当然、日蓮大聖人の御書には見られない説であり、僧俗和合して令法久住・広宣流布に向かって折伏弘通に精進することこそが、大聖人の仏法である。
『三大秘法抄』には、
「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」(御書 一五九五)
と、僧俗和合の姿について説話をもって示されている。これは、有徳王という在家信徒の外護によって、覚徳比丘という正法伝持の僧宝を守り抜いたというものである。
また『四恩抄』にも、
「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(同二六八)
とあり、大聖人は信仰実践の上で適切に「出家・在家の区別を認められたことは論ずるまでもない。 学会の主張する「在家教団こそが増宝」なる邪論は、大聖人の仏法を根本から否定するものである。
 大聖人の仏法を騙り、創価学会こそが僧宝であるとの増上慢を懺悔しない限り、大謗法団体とのレッテルが剥がれることはない。
(大白法令和7年9月1日号より転載)