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現実から目を背ける誑惑の教えー浄土宗

 諸宗教破折
 日本における仏教の中で、浄土系の宗派が最も規模が大きいという。 浄土系の宗派は多々あるが、大別すると浄土宗と浄土真宗の二派に分かれる。
 浄土宗は「念仏を懸命に唱えることにより誰でも往生できる」と言い、一方、浄土真宗では「阿弥陀仏を信じるだけで、悪人ですら「往生できる」と説く。
 そして、本令和五年に浄土真宗では、宗祖親鸞の誕生850年を迎え、浄土宗は宗祖法然が浄土宗を開いてから来年で850年を迎えるとして、両宗とも阿弥陀仏や法然・親鸞に対する報恩の記念法要・記念事業を計画している。
 阿弥陀仏と法然・親鸞を讃歎する彼らは、自分たちが何を崇めているかを理解しているのだろうか。 果たして、彼らは何処に往生しようというのだろうか。
阿弥陀仏は架空の仏
 浄土三部経の一つである無量寿経には、阿弥陀仏の本願とされる四十八願が説かれる。そのうち、浄土系が重視する第十八願には、
「阿弥陀仏が念仏を唱える者を浄土に往生させる。ただし五逆罪と正法を誹謗する者とを除く(趣意)」
とある。つまり阿弥陀仏自身がはっきりと、正法を誹謗する者は救えないと断言しているのである。
 では、仏の「正法」とは何か。
 法華経『方便品』には、
「正直に方便を捨てて但無上道を説く」(法華一二四ページ)
と説かれ、法華経こそが真実の正法であり、 浄土三部経等の方便の教えは捨てるべきであると明かしている。
 つまり浄土の教えとは、阿弥陀仏の本願にも背き、仏教の道理にも適わない教えなのだ。
 この阿弥陀仏は、他の権仏と同様、釈尊の経典中に説かれる架空の仏であり、実際に娑婆世界に出現して衆生を教化したことは一度もない。
 日蓮大聖人が『観心本尊抄』に、
「能変の教主涅槃に入りぬれば、所変の諸仏随って滅尽す」(御書 六五四ページ)
と御教示のように、爾前・迹門のあらゆる教えは釈尊が娑婆世界に出現したあとに説かれたものであるから、この土における化導を終えて釈尊が入滅してしまえば、釈尊によって変ぜられ現われたところの諸仏は直ちに滅尽する、権の仏に過ぎないのである。
 もし仏教の筋目に従うならば、末法の今日、「所変」の阿弥陀仏はもとより、道理に違う法然・親鸞等の邪師を崇める理由などない。
「極楽浄土」は何処に?
 浄土真宗本願寺派(西本願寺)の教義に、
「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する」(浄土真宗本願寺派のホームページ)
とあり、念仏の教えでは、阿弥陀仏の力によって死後に「極楽浄土に往生できる」と説く。
 しかし、このような「極楽浄土」をめざすことは、我々が生きている現実世界を穢土(汚れた国土)と見限り、現実逃避の思想を植え付けることになる。
 そして、今世で救われないからと「極楽浄土」を夢みて現実から逃げることを勧め、生きる活力を奪う教えでもある。
 何とも無慈悲な教えではないか。
娑婆世界こそ仏国土
 法華経『寿量品』には、
「我常に此の娑婆世界に化す」(法華経 四三一ページ)
と説かれている。
 つまり、久遠の昔に成道されて以来、真実の仏は娑婆世界(我々の住む現実世界) の中にあって、常に衆生を導くために説法教化されてきたのである。そして、この娑婆世界こそが、そのまま仏の在します常寂光土(清浄な国土)であり、妙法を唱えることにより、その身そのまま成仏することが叶うのである。
 故に、この娑婆国土を離れて「極楽浄土」を求めるなど筋違いなことであり、念仏の教えは、ありもしない幻想を衆生に抱かせる誑惑の教えなのだ。


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