諸宗教破折
令和五年十月十六日、顕正会長の浅井昭衛が九十一歳で死去したとの報が舞い込んできた。
浅井昭衛は昭和六(一九三一)年、東京都に生まれた。浅井昭衛の父は甚兵衛といい、昭和五、六年に品
川・妙光寺の信徒に折伏され、日蓮正宗に入信した。
甚兵衛は昭和十七年に妙信講という講中を結成。 息子の昭衛と共に妙光寺、法道院、妙縁寺と渡り歩き、行く先々で住職と、あるいは信徒との間で様々な問題を起こした。その問題はいずれも浅井親子の独善的で増上慢な振る舞いに起因したようだ。昭衛の「国立戒壇」との主張は、その増上慢の最たるものである。
昭和四十年二月十六日、正本堂の建立に向けての第一回正本堂建設委員会が、大石寺で開催された。
正本堂は、宗門の隆盛と大御本尊の御威光を世に知らしめるような巨大な建築物となることから、総本山第六十六世日達上人の御指南と、宗門の総意をもって広宣流布の暁の本門寺の戒壇たるべしとの願望によって建立されることとなり、昭和四十年三月二十六日には『正本堂建立御供養趣意書』が発表された。
昭衛はこれを受け、同年五月二十五日に、
「いよいよ意義重大なる正本堂が建立される事になります。(中略)先生(甚兵衛)は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。 全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか」(冨士 二三号八ページ)と正本堂建立の意義に全面に賛同する発言をした。
我慢偏執の「国立戒壇」
ところが昭衛は、昭和四十五年頃より強硬に国立戒壇を主張するようになる。
これには、国立戒壇という政教一致の主張を行うことにより、当時、日蓮正宗の信徒団体として政界進出を果たしていた創価学会(公明党)を困らせたいという狙いや、将来、正本堂が解体され、国立戒壇が建てられるのだという底意が含まれていたと思われる。
すなわち昭衛の言う国立戒壇とは、敢えて宗門と対立するための主張で、 この増上慢の浅井親子が頭目となっていた妙信講が、のちに破門されたのも当然だったといえよう。
そもそも国立戒壇という語は、国柱会の創始者である田中智学が、明治三十六(一九〇三)年に初めて使
用し、日本の天皇・国家が本門の戒壇を建立して日蓮仏法を国家主義的なものとし、 国立戒壇のもとに世界を統一するという意味を持っていた。
かつて宗門でも、わずかながら国立戒壇の語を使用した例があったが、その意味は田中智学の主張とは全く違い、純粋に広宣流布の暁の本門寺の戒壇を指すものであった。
日達上人は昭衛の頑強な主張に対し、御仏意を深く拝された上で、今後は「国立戒壇」の語を使用してはならない旨、重々の御指南を下された。
すなわち、宗祖日蓮大聖人は、末法の一切衆生の成仏のために妙法の広宣流布を願われたのであり、国家主義的な仏法をめざされたのではない。衆生の成仏に国家云々は関係なく、大聖人の教えを素直に拝し、三大秘法を受持することこそ重要なのである。
今日、国立戒壇の語を使用することは、余計な誤解を招き、折伏の妨げとなりこそすれ、布教上のメリットは何もない。
昭衛の姑息な心底を見極めろ
平成十年、第六十七世日顕上人の御英断によって正本堂が解体され、大御本尊は奉安殿に御遷座された。
それを受けて昭衛は、
「御遺命守護完結奉告式」
なる催しで、
「いかなる大地震にも大御本尊様は御安泰。 今や後顧の憂いは全くなし」(顕正新聞 七六四号)
と喜び、宗門に対して恭順するかと思いきや、翌年に突然、正信会や創価学会の後塵を拝して、正本堂解体の断を下した日顕上人の血脈を否定 (同七九七号)。
さらに奉安堂が建立されるや、巨大地震やミサイルが飛んでくるかもしれないから、地下深くに御宝蔵を作れ(同九八二号)などと言い出す始末。どれもが、為にする誹謗である。
昭衛が死去した今こそ、顕正会員は同人のペテンに気づくべきである。
誰が「入阿鼻獄」の謗法者かは、自明であろう。
(大白号令和5年12月1日号より転載)