諸宗教破折
宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節に当たり、各日蓮門下では、様々な慶祝事業を行っている。
そんな中、正信会の機関紙・継命に、次のような記事が載っていた。
「経住寺法華講はこの佳節を記念して、昨年より御書の書写運動を展開し、私も立正安国論や報恩抄を書写させていただきました」(令和三年三月一口付)
これは、正信会に属する経住寺檀徒の発言である。
御書書写運動?
これを受けて、経住寺を占拠する吉川興道は、
「多くの方がご報恩の『御書書写運動』に参加したことに意義がある。御書を書写した二百字詰め原稿用紙は、大聖人へのお土産に霊山浄土へ持参するので、臨終の折り棺に納める」(同)
と話したのだそうだ。
「御書書写運動」なるものが、正信会として推奨しているのか、独自に実施しているのか判然としないが、時代錯誤も甚だしい。
時代錯誤というのは、単なる筆者の感想ではない。
大聖人の御教えに照らして明らかである。
得道は無理!
大聖人正嫡たる我が日蓮正宗は、御当代御法主日如上人猊下の驥尾に附し、僧俗一致して百日間の唱題行を実践し、法華講員八十万人体勢構築をもって、本年の仏恩報謝に供え奉っている。
対して「御書書写運動」なるものの、何と薄っぺら いことよ。
大聖人は、『南条兵衛七郎殿御書』に、
「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(御書322ページ))
と仰せである。
この法華経とは、詮ずるところは本門戒壇の大御本尊であり、御法体を御所持あそばされるのは、唯授一人の御法主日如上人猊下に他ならない。
よって、御法主上人猊下に背逆し続けている正信会は、すべからく「法華経のかたき」に堕すわけで、成仏得道はあり得ない。
時に適わない
法華経の『法品第十』には、受持・読・誦・解説・書写の五つの修行が説かれている。
大聖人は、
「此の妙法等の五字を末法 白法隠没の時、上行菩薩御出世有って五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと経文に親り之在り」(同一七九五ページ)
と仰せられ、さらに御法主日如上人猊下は、
「末法においては受持の一行にすべて収まるのです。(中略) 末法の修行としては、論、解説、書写を各別に行う必要はなく、受持のなかにそれらのすべてが含まれているのであります。よく邪宗では写経などと言って、どういう意味で修行をしているのかも解らないで、書写行と称してやっているけれども、そういう修行は必要ないのです」(大白法798号)とご指南されている。
彼らの「御書書写運動」は、末法に合致しない、正法時代、像法時代の修練なのだ。
受持とは自行化他
大聖人は、『爾前二乗菩薩不作仏事』に、
「一切の菩薩必ず四弘誓願を発こすべし。 其の中の衆生無辺誓願度の願之を満足せざれば、無上菩提誓願証の願又成じ難し」(御書 一八一ページ)
と御教示されている。 折伏弘通の誓願がないところ、他のどんな実践修行を尽くそうと、成仏には至らない。
自らの成仏が叶わずに、大聖人への御報恩は語れまい。
「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(同300ページ)
との御指南を拝せば、自行化他に励み、命に刻まれた福徳のみを霊山へ持ち越すことができ、大聖人がお褒めくださるのである。
御書をせっせと書写して棺に納めたとて、せいぜい字の練習、けっして「今生人界の思出」とはならない。
そんな残念なことをさせる前に、自他共に、正直に謗法を懺悔すべきである。