諸宗教破折
4/10/2018
「大聖人の御金言が中心」と嘯(うそぶ)く浅井昭衛
「御金言」も勝手に解釈すればただの己義
本年二月十五日付『顕正新聞』で顕正会会長・浅井昭衛は、
「仏法は独裁でも民主主義でもない」として、日興上人遺誡置文の「時の貫主たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」について、「絶対権威である『時の貫主』の言葉であっても、それが仏法に違背する自分勝手な悪義であったら、断じてそれを用いてはならない」と解釈し、また、「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を摧くべき事」について、「たとえ大衆の意見であったとしても、それが仏法に相違するものであれば、貫主はこれを摧かなければいけないと。この二個条を拝見すれば、仏法は独裁でもなければ民主主義でもない、法が中心である」「その『法』とは、日蓮大聖人の御金言であります」
と述べている。だが、その「大聖人の御金言」に「相違するもので」あるかどうかは誰が判定するのか、について浅井はウヤムヤにしてしまっている。
すなわち、いくら「大聖人の御金言」が中心と言ってみても、他門流の体たらくを見れば明らかなように、仏の御金言は相伝によって拝さなければ、十人十色のまちまちの解釈となって、結局は仏法に相違する己義となるのである。
このことに関して第六十六世日達上人は、
「時の貫主とは、その宗の頭、すなわち現在の管長である法主である。管長であるから宗門を運営するに当たって、誰を採用し、任用してもよいのであるが、大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立て、しかも注意されても改めない人を用いてはならない。つまり、時の貫主の権限を示されているのである」
と御指南されており、また、第六十七世日顕上人は、
「この御文に関しましては御先師もいろいろな意味での御指南を賜っておりますが、やはり御先師の御指南は御指南として私は、その御指南の意義を謹んで、拝受していくものであります。しかしまた、ある面から考えましても、つまり『時の貫首』という語を『之を用うべからず』との語との関連で、主語として考えるかの区別になるわけですけれども、仮に客語として考えた場合は、そのときの貫主が、つまり私なら私に仏法の相違があり、己義を構えた場合、大衆はこれを用いてはならない、というわけです。これについて日達上人も『しからば、その己義というのはだれが判定するんだ』と皆さんに反問されていたことを御承知でしょう。たしかに、そういう意味はあるのです。
すなわち、例えば私が今から、大聖人の仏法の化義・化法の一切に背いて、なおかつ、なんびとにもそれとわかるようなことを言い出したならば、これはたしかに用いるべきではありません。しかし、大聖人の御指南を根本としたうえで言っておることに関してならば、やはりその法主の御指南を中心に聞かなければならないはずであります。」
と御指南されている。
すなわち、時の貫主が己義の者を用いてはならない、と拝するのが、大衆が時の貫首を用いない、と拝するのか、文言の主客により両方の読み方ができるが、では、貫首の己義を誰が判断するのか、との日達上人の反問を心して拝さなくてはならない。
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書 九二頁)
との戒めを胸に蔵するならば、御法主上人の甚深の御教導を軽々と足蹴(あしげ)にする浅井等に、この御文の解釈などする資格はない。
『報恩抄』に
「鬼弁婆羅門(きべんばらもん)がとばりは、多年人をたぼらかせしかども、阿湿縛窶沙(あすばくしゃ)菩薩にせめられてやぶれぬ。」
(御書 一〇一八頁)
との仰せがあるが、日蓮正宗の教義にない「国立戒壇」に固執し、勝手に本尊を印刷するなど、多くの会員をたぼらかす浅井は、現代の鬼弁婆羅門(きべんばらもん)であり、浅井に追随する会員こそ哀れと言うべきである。
心ある顕正会員は、勇気をもって一刻も早く脱会し、日蓮正宗へ帰依してほしいと念願するものである。
(慧妙 平成三十年三月十六日号)