天台大師(てんだいだいし)は、利益(りやく)と功徳(くどく)について、
「厳密にいえば、功徳とは自ら積むものであり、利益とは他から与えられるものという違いはあるが、仏道修行による得益の相からいえば、その意義は同一である(法華玄義巻六取意)」
といわれています。
したがって、普通は利益のことを功徳といってもさしつかえありません。
妙楽大師(みょうらくだいし=中国天台宗の第六祖)の弘決(ぐけつ)には、
「仮使(たとい)発心(ほっしん)真実ならざる者も正境(しょうきょう)に縁すれば功徳猶(なお)多し」
といわれるように、日蓮大聖人が顕(あら)わされた一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ=全世界のすべての人々に与えるという意味)の大御本尊には、仏様が一切衆生を救う仏力と、あらゆる災(わざわ)いを除いて人々を幸福に導く法力が厳然と納められておりますので、これに縁する者は大きな功徳を積むことができるのです。
御本尊を拝しますと左の御かたに「有供養者福過十号(うくようしゃふくかじゅうごう)」としたためられています。
十号とは仏様の尊称で、如来・応供(おうぐ)・正偏知(しょうへんち)・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・世間解(せけんげ)・無上士(むじょうし)・調御丈夫(ちょうごじょうぶ)・天人師(てんにんし)・仏世尊(ぶっせそん)のことですが、これについて日蓮大聖人は、
「末代の法華経の行者を讃(ほ)め供養せん功徳は、彼(か)の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。これを妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり」(法蓮抄・御書813頁)
と仰せられ、法華経の行者・日蓮大聖人の当体である御本尊を信仰し供養する者の功徳は、仏典に説き示されている生身の仏を長い間供養するよりも百千万億倍勝れ、その無量の智慧(ちえ)と福徳は仏の十号にもまさると説かれています。
したがって仏力・法力の功徳は、他から安易に与えられるものではなく、御本尊に対する信力・行力を磨くことによって、はじめて積むことができるのです。
普通「ご利益」というと、お金が儲(もう)かったり、病気が治ったり、願いごとが叶(かな)うなどの目前の現証だけを考えがちです。このような今世の利益も大事ではありますが、仏様はすべての生命は今世だけのものではなく、過去・現在・未来の三世にわたって永遠不滅なるがゆえに、過去世の罪障(ざいしょう)を消滅し、今世のみならず未来永劫にわたって清浄な幸福境界(きょうがい/境涯)を確立することが真実の利益であると教えられています。
日蓮大聖人は功徳について、
「功徳とは六根清浄(ろっこんしょうじょう)の果報なり。(中略)悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳とは即身成仏なり」(御義口伝・御書1775頁)
と仰せです。六根とは、眼根(げんこん)・耳根(にこん)・鼻根(びこん)・舌根(ぜっこん)・身根(しんこん)・意根(いこん)の生命の識別作用の器官をいい、それが清浄になるとは、六根に備わる煩悩(ぼんのう)の汚(けが)れが払い落とされて清らかになり、ものごとを正しく判断できる英知が生まれることなのです。
したがって正しい御本尊を信ずるとき、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり、生命に内在する仏性はいきいきと発動し、迷いの人生は希望に満ちた楽しい人生に転換されていくのです。
これを即身成仏の境界というのです。
正しい信仰を知らない人は、この六根が無明(むみょう)の煩悩におおわれて、人生に対する判断に迷い、とりかえしのつかない過ちを犯すことが多いのです。
このように日蓮正宗の信仰は、人間の生命を根本から浄化し、英知と福徳を備えた幸福な人生を築くものですが、その利益は個人の人間に止まるものではありません。
日蓮大聖人は依正不二(えしょうふに)という法門を説かれています。依とは、私たちが生活するこの国土をいい、正とは、私たち人間のことです。この法門は、人間の思想や行動がそのまま非情の国土世界に反映するという「不二(ふに=一つであること)」の関係にあることを明かしたものであり、国土の災害や戦乱・飢餓を根本的に解決し、悠久(ゆうきゅう)の平和社会を実現するためには、正報である人間が清浄な福徳に満ちた生命に転換しなければならないことを示したものです。
私たちが三世にわたって即身成仏の境涯を築き、しかも国土を平和社会に変える方途は、日蓮正宗総本山大石寺に厳護される本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊を純真に拝し、弘宣(ぐせん)していく以外にはないのです。