宗教に正邪があることがわからない。
なぜ人は信仰し、宗教を求めるのかと問う時、ある人は神仏に守ってほしい、ある人は願いを叶(かな)えてほしいといい、またある人は先祖の冥福(めいふく)を祈りたいなどとさまざまな答えがかえってくると思います。
現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格祈願のための神社をはじめ、水子供養専門の寺院とか、虫封じの神社があるかと思えば「とげ抜き地蔵」なるものまで、多種多様の宗教があります。
また信仰する対象も、同じキリスト教でも十字架を拝むものや聖書・マリア像・キリスト像を拝むものなどさまざまですし、仏教でも釈尊像を拝むものや、大日如来(だいにちにょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)、薬師如来(やくしにょらい)などの仏や、観音、弥勒(みろく)などの菩薩、あるいは大黒天、弁財天などの天界の神を祭るものなど、宗派によって多岐に分かれています。
もし宗教が単に気休めや精神修養のための手段ならば、それはちょうど音楽の好きな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人の好みによればよいということになるかもしれません。
でも少し考えてみて下さい。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁のものからは生活に直接影響を受けませんが、身近なものや、信用したものは、その善悪、真偽、正邪によって大きな影響を受けることになり、それが人生の指針にかかわるものや、人命に関するものであればなおさら大きな力として影響を受けることになります。
たとえば、進学や就職、結婚などは誰でも慎重に選択するでしょうし、日常生活でも乗物や食べ物あるいは医薬品などは、より信用できるものを選ぶものです。その選択の基準として、自分の経験や、道理の適否・実験の結果・保証の有無・他者の評価などを考慮したうえで、できる限り、よい価値を生ずるもの、すなわち満足できるものを選ぶのではないでしょうか。
これと同じように、宗教もそれぞれ本尊が異なり、教義もさまざまですが、日蓮大聖人は、
「小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其(そ)の時上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづ(授)くべし」(高橋入道殿御返事・御書887頁)
と仰せのように、三毒強盛(さんどくごうじょう)の末法の衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬を与えるべきことを教示されています。
釈尊も法華経において、
「唯(ただ)一乗の法のみ有り、二無く亦(また)三無し」(方便品第二・開結110頁)
と説かれ、仏になる道はただ法華経以外にないことを明かされています。
いいかえると、この経文は一乗の法、すなわち法華経以外の教えは、真実の教法ではないとの意味です。このように、宗教には正邪の区別があることを知らなければなりません。