超能力を信ずることは宗教なのか
一般的に超能力とは、普通の人間の五官ではなしえない力を指して言いますが、本来、十界(仏界・菩薩・縁覚・声聞・天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄界)の生命を具えている人間が、周囲の「縁」や「修練」によって、特別な能力を持ったとしても少しも不思議ではありません。
仏教では、これら超能力のことを「神通力」あるいは単に「通力」と呼び、これを五通(ごつう)と六通(ろくつう)に分けて説明しています。
五通とは、
1、自在に移動出来る力
2、透視する力
3、普通の人の聞こえない音を聞く力
4、他人の考えを知る力
5、自他の過去世の相(すがた)を知る力
といい、六通とはこれに、煩悩を取り去る力を加えたものを指します。こうしてみると現代の超能力者のなかには、仏教でいう五通の一分を持った者もいるということができましょう。
現実に、通力や超能力を持っている人はいるかもしれませんが、その能力の存在そのものは別に宗教ではありません。
しかし、超能力を売り物にした行者とか祈祷師などの教えを信じて、その通力に頼っておうかがいをたてたり、悩みを解決しようとする行為が誤った信仰になるのです。日蓮大聖人は、「利根(りこん)と通力とには依るべからず」とおおせになっています。利根とは、鋭利な五根(ごこん)(眼根・耳・鼻・舌・身根)を具えることであり、普通では見えないものを見、聞こえない音を聞き取るなどの能力を持つ人をいいます。
通力とは、前にのべた五通、六通の特殊な力を言います。大聖人は、これらの利根や通力には「人間の生命を浄化する力」はまったくなく、かえって正しい仏法を見失わせ、成仏への障害となるために、これらに頼ることを厳しく禁じられているのです。
ただし、こうした一般の超能力とは違った「真の通力」について、法華経寿量品(ほうけきょうじゅりょうほん)第十六には、「如来秘密神通之力(にょらいひみつじんづうしりき)」と説かれています。この神通力とは、悪業深重(あくごうじんじゅう)の衆生をも必ず成仏せしめるという、仏のみが持つところの「究極の功徳力」をいいます。
大聖人は、「成仏するより外(ほか)の神通と秘密とは、これ無きなり」とお仰せです。
末法においては、ご本尊を信じ「南無妙法蓮華経」と一心に唱えることにより、「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」が遂げられるのであり、これこそ如来の秘密、神通力なのです。