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衣座室の三軌(えざしつのさんき)

教学用語

衣(え)座(ざ)室(しつ)の三(さん)軌(き)

衣(え)座(ざ)室(しつ)の三(さん)軌(き)とは、法(ほ)華(け)経(きょう)の『法(ほっ)師(し)品(ほん)第十』に説かれたもので、仏の滅後に法華経を弘(ぐ)通(づう)するための三種の心得をいい、弘(ぐ)経(きょう)の三軌とも言います。

釈(しゃく)尊(そん)は『法師品』において、薬(やく)王(おう)菩(ぼ)薩(さつ)をはじめとする八万の菩薩に対し、いかなる者でも仏道を求めて法華経の一(いち)偈(げ)、一句でも聞いて、一(いっ)瞬(しゅん)でも心に随(ずい)喜(き)する者はすべて成仏すると説かれ、その尊い法華経を受持し、弘(ひろ)める者は如来(にょらい)の使いであり、その功徳は莫大(ばくだい)であると説かれました。そして法華経が今まで説いてきたあらゆる経典の中で最も勝(すぐ)れていることを説かれます。

しかしまた、この法華経に対しては如来(にょらい)が世に在(ましま)す時ですら恨(うら)みや嫉妬(しっと)が多いのであるから、まして滅後の末代悪世においては刀(とう)杖(じょう)瓦(が)石(しゃく)による迫害(はくがい)もあり、この経を弘めることは極めて困難であると説かれました。そして、如来滅後にこの経を修行し弘める者の心得を「弘経の三軌」として説かれたのです。

同品に、

「若(も)し善(ぜん)男(なん)子(し)、善(ぜん)女(にょ)人(にん)有って、如来の滅後に、四(し)衆(しゅ)の為(ため)に、是(こ)の法華経を説かんと欲(ほっ)せば、云何(いかん)が応(まさ)に説くべき。是の善男子、善女人は、如来の室に入(い)り、如来の衣(ころも)を著(き)、如来の座に坐(ざ)して、爾(しか)して乃(いま)し四衆の為に広く斯(こ)の経を説くべし。如来の室とは、一切衆生の中の大(だい)慈(じ)悲(ひ)心(しん)是なり。如来の衣とは柔(にゅう)和(わ)忍(にん)辱(にく)の心是なり。如来の座とは一(いっ)切(さい)法(ほう)空(くう)是なり」(法華経 三二九?)

とあるように、仏の滅後に法華経を説く者は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座して法を説くように示されています。

また、

「是の中に安(あん)住(じゅう)して、然(しか)して後に不(ふ)懈(け)怠(だい)の心を以(もっ)て、諸の菩薩、及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし」(同)

と、この三軌に随(したが)って、しかも懈(おこた)り怠(なま)けることのない心をもって、多くの菩薩及び四衆(比丘(びく)・比丘尼(びくに)。優(う)婆(ば)塞(そく)・優(う)婆(ば)夷(い))のために広く法華経を説くように示されています。

さらに偈(げ)頌(じゅ)には、

「若し此の経を説かん時 人(ひと)有って悪口し罵(ののし)り 刀杖瓦石を加うとも 仏を念ずるが故に応に忍(しの)ぶべし」(同 三三二?)

と示され、人に法を説くとき、悪口によって罵られたり、刀や杖(つえ)、瓦(かわら)や石などによって迫害を加えられたとしても、仏を念じてその難を忍ぶべきであると説かれています。

「如来の室」とは

如来の室とは「大(だい)慈(じ)悲(ひ)心(しん)」ということです。他人(ひと)に正しい法を弘(ぐ)宣(せん)し、一切衆生を救済していこうという、広大な慈悲の心を起こすことです。

慈悲とは苦を抜(ぬ)き、楽を与(あた)えるという意味で、様々な苦しみに喘(あえ)ぐ人々から、苦しみの原因を取り除き、正法の信仰(しんこう)による安楽を与えようと志(こころざ)す大きな心をいいます。

「如来の衣」とは

如来の衣とは「柔和忍辱の心」ということです。柔和とは、仏の教えに随って純真な気持ちを持つことです。忍辱とは、正しい法を弘めるならば、毀(そし)られたり、辱(はずかし)められたりすることがあります。そのような苦(く)悩(のう)や迫害、侮(ぶ)辱(じょく)にあったときにも動揺(どうよう)せず、堪(た)え忍ぶ心を持つことです。

「如来の座」とは

如来の座とは「一切法空」ということです。一切法空とは、あらゆる存在と事象は因縁によって生じているのであり、因縁によって生じたものは、それ自体に実体はない「空(くう)」であると覚(かく)悟(ご)して、その座(境(きょう)界(がい))に住するということ、即(すなわ)ち一切の煩悩(ぼんのう)や執(しゅう)着(ぢゃく)、事物に執(とら)われることなく、不(ふ)惜(しゃく)身(しん)命(みょう)の精神で法を説くということです。

天(てん)台(だい)大(だい)師(し)は『法(ほっ)華(け)文(もん)句(ぐ)』において、

「慈悲をもって物を覆(おお)い、恵(え)利(り)己(おのれ)に帰す、之を名づくるに室の如し。彼の悪を遮(しゃ)して己が醜(しゅう)を障(さ)う、之を名づくるに衣と為(な)す。心を空に安んじて方(まさ)に能(よ)く他を安んず、他を安んじ己を安んず、之を名づくるに座と為す」(文会中 六一五?)

と釈され、慈悲は物を覆い、恵みを与えるので「室」であり、柔和忍辱の心は悪を遮(さえぎ)り、己の醜(みにく)い煩悩を妨(ふせ)ぐので「衣」であり、すべての物は空であるという境地に「座」するならば、自他共に安んずることができると説いています。

三軌具足の唱題行

この弘経の三軌は、釈尊が滅後の法華経弘通の法(ほう)軌(き)として示されたものですが、末法に御出現された日蓮大聖人は、下(げ)種(しゅ)折(しゃく)伏(ぶく)という仏法の根本の御化導から三軌を実践(じっせん)されました。

大聖人は『御義口伝』に、

「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉(たてまつ)る者は此(こ)の三軌(き)を一念に成就するなり。衣とは柔(にゅう)和(わ)忍(にん)辱(にく)の衣、当(とう)著(じゃく)忍(にん)辱(にく)鎧(がい)是なり。座とは不(ふ)惜(しゃく)身(しん)命(みょう)の修行なれば空座に居するなり。室とは慈悲に住して弘むる故なり。母の子を思ふが如(ごと)くなり。豈(あに)一念に三軌を具足するに非ずや」(御書 一七五〇?)

と説かれているように、題目を唱えるならば、母が子を思うような深い慈悲の心と柔和忍辱の心、そして不惜身命の心が一念の中に具足して起こってくるのです。

ま と め

私たちは、折伏を行ずるに当たり、御本尊に対する絶対の信をもって真剣に唱題を行ずるならば、その功徳によって、この三つの尊い命が同時に具(そな)わることを確信することが肝要(かんよう)です。そして、一切衆生を救わんとの大慈悲の心を起こし、何(いか)なる障(しょう)魔(ま)が競い起ころうとも、動ずることなく堪え忍び、一切の煩悩や、何事にも執われることのない不惜身命の精神をもって、地(じ)涌(ゆ)倍(ばい)増(ぞう)達成に向けて折伏に精(しょう)進(じん)してまいりましょう。

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